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神から賜る知恵

神から賜る知恵
大坪章美

ヤコブの手紙 3 章 13-18 節

ヤコブの手紙の著者は、主イエスの弟ヤコブであり、エルサレム教会の頭であった有能な人物でした。主の兄弟ヤコブが、この手紙を書いた時期は、彼が殉教の死を遂げた紀元62年より、以前のことになりますが、その頃には、ユダヤ国内のユダヤ人の何倍もの離散したユダヤ人が、周辺の国々、シリアやギリシャ、ローマ、エジプトなどに住み着いていました。

然し、ヤコブがこの手紙の読者として想定した人達は、このような一般的な、離散したユダヤ人達ではなく、このユダヤの外に住む、多くのユダヤ人の中の「キリスト教徒」を、この手紙の読者と考えていました。

この手紙の目的は、「教会の世俗化」に対して、警告を与えることにありました。教会の人々が、神のご意志に従うことよりも、世俗社会の価値観を優先させて、キリスト者として歩むべき本来の姿を失っていることを、ヤコブは激しく非難しています。
ヤコブは、「あなたがたの中で、知恵があり、分別があるのは誰か」と問いかけています。この、「知恵があり、分別がある」というギリシャ語が、そっくりそのまま、旧約聖書に記されている個所があります。それは、七十人訳聖書の申命記1:13節で、「賢明で、思慮深い」と、訳されています。この申命記の個所は、イスラエルの各部族の指導者を選ぶ基準として、「知恵があり、分別があり、経験に富む人々を選びなさい」と、記されているところです。つまり、ヤコブは、教会の人々に、「あなた方の中で、教師にふさわしい知恵と、分別とを持ち合せている者は誰か」と、問いかけているのです。そして、その人は、知恵にふさわしい柔和さを、実際の行いによって示さなければならない、と命令しています。

ヤコブが手紙で語りかけている教会の人々の中には、実際に、自分自身の“知恵”を誇りながら、然し現実には、その、“知恵”とは程遠い生き様をしているキリスト信徒達が居ました。このような、教会員達の心の中には、妬みと、自分本位と、敵意が巣食っています。

真の知恵は、神から来る知恵です。それは、「上から出たもの」として人間に与えられ、その人に、「柔和で、正しく歩む力」を与えます。これと正反対の、偽りの知恵は、その源を、この世に持っていますから、人間の生まれながらの性に支配されます。偽りの知恵に支配される者は、神の御霊に満たされることがありませんから、自らの生活を、神の御心に沿って歩む、ということが出来ません。この世の人々が、自分の人生に手を焼いて、自らの理想どおりに生きることが出来ない、後悔と絶望感に付きまとわれて生きる理由は、その人の持って生まれた知恵と、神に逆らう勢力に支配されて生きざるを得ないからです。生まれながらの人間は、自らの頭で構築した人生設計を歩もうと、努力しますが、この世の勢力、闇の力が四方八方で妨害することになります。

このような知恵と、真反対の極にあるのが、「上からの知恵」です。ヤコブは17節で、「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に温和で、優しく従順なものです」と、記しています。この、「上から賜る知恵」によってこそ、人間は、神様が求められる道に従った行いをすることが出来るのです。
 
このように、「上からの知恵」は、聖く、温和で、優しく、従順でありますから、無用の争いばかりを惹き起こすことをしません。それによって、キリストの集会が、聖い絆で結ばれるのです。「上からの知恵」は、神の愛と結び付いていますから、憐れみに満ちていて、良い実のみを結ぶ、と記しています。

そして、ヤコブは、既に、この「上よりの知恵」が、人間の生まれついてのものではなく、神から賜る知恵であることを、教えようとしているのです。1:5節で、ヤコブは言いました、「あなた方の中で、知恵の欠けている人がいれば、だれにでも、惜しみなく、咎めだてしないで、お与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」。わたしたちは、この一週間も、上から賜る知恵を頂いて、迷うことなく、柔和に歩み続ける者でありたいと願います。

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