過去の説教

御言葉を聞いて行う者

御言葉を聞いて行う者
大坪章美

マタイによる福音書 7 章 21-29 節

今日、お読み頂いた聖書個所は、山上の説教の締め括りとも言うべきところに当ります。イエス様は21節で、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入る訳ではない。わたしの天の父の御心を行う者だけがはいるのである」と、仰っています。
イエス様を、同じように、「主よ、主よ」と呼んでいても、それから先が問題なのです。イエス様を、「主よ、主よ」と呼びながら、イエス様のお言葉を聞くだけで、実行しない弟子達がいましたし、又一方では、イエス様のお言葉を聞いて、実行する弟子達、がいたのです。

イエス様が仰る、「わたしの天の父の御心を行う者」とは、どんな条件を満たす者であるのか、ヨハネによる福音書6:40節に記されております。そこでは、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が、皆、永遠の命を得ることであり、わたしがその人を、終りの日に復活させることだからである」と、仰っています。即ち「父の御心を行う者」とは、イエス様のお言葉を聞いて、「イエス・キリストを信じる者」の事なのです。

イエス様は、続けて、もうひとつの譬え話をされました。ここでも、二種類の人が登場します。24節です、「そこで、わたしのこれらの言葉を、聞いて、行う者は、皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われました。イエス様が、仰った、「わたしのこれらの言葉」が何を指しているかは、この譬え話が、イエス様の“山上の説教”における、最後の話しであることから理解できます。5章1節から始まったイエス様の「山上の説教」を指しています。

この、“山上の説教”を聞いて行う者は、皆「岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と仰っています。「雨が降り、川が溢れ、風が吹いて、その家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」と言っておられます。自分の家には雨が降り注ぎ、川が溢れて、水が押し寄せ、猛烈な風が吹いてくることもあるでしょう。然し、その家の土台が、岩の上に固定されている場合は、その家はビクともしないのです。

イエス様は、二つ目の分類の人について語られます、26節です、「わたしのこれらの言葉、即ち、山上の説教を、聞くだけで行わない者は、皆、砂の上に家を建てた、愚かな人に似ている」と仰いました。この世の試練は、人を分け隔てしません。家の土台を砂の上に据えた愚かな人の家にも、容赦無く雨が降り注ぎ、川が溢れて、水が押し寄せ、猛烈な風が吹いてきます。その場合、その上に家の土台を据えられた砂は雨で流され、支えを失った、土台の上の家は、いっぺんに傾き、壊れてしまいます。そして、この大きな差が現れたのは、「家の土台を正しく置く、賢さがあったかどうか」という、一点に絞られるのです。このいずれの場合にも、建てられた家が、例え嵐に遭ってもビクともしない土台を置く、堅固な岩とは、何の事でしょうか。この岩こそ、「キリストの御言葉」であり、「キリストの御心」あるいは、キリスト・イエスご自身なのです

山上の説教の中には、「行うに困難なこと」が数多く語られています。これらを行う者が神の国に入るのであれば、私達はどうなるのでしょう。「私は、行っている」と言える人は果たしているでしょうか。・・然し、安心して下さい。イエス様は、そのような事を要求してはおられません。では、何を求めておられるのでしょう。それは、「岩の上に家を建てる者になる事」です。

「岩」とは、イエス様ご自身であることを、私達は知っています。そうすると、「岩の上に家を建てる者」とは、やはり、「イエス様を信じる者」の事です。イエス様のお言葉を聞いて、信じる者には、山上の説教で語られたことも、神の力に依って、可能になるのです。

今日、私たちは、「神の御心を行う者」、そしてイエス様が仰った、「わたしのこれらの言葉を聞いて、行う者」が、確固たる人生を歩み、天の国に入る、との御言葉を学びました。そして、「神の御心を行う者」も、「イエス様の御言葉を聞いて、行う者」も、実際は、「イエス・キリストを信じる者」であることを学びました。今週も、御言葉に耳を傾け、主イエスを信じつつ、歩む者でありたい、と願っています。

アーカイブ