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天から降った命のパン

天から降った命のパン
大坪章美

ヨハネによる福音書 6 章 60-71 節

今日お読み頂いた個所は、イエス様の弟子たちの“つぶやき”から始まりました。「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか」と、弟子たちの多くの者が言った、というのです。この、「ひどい話」、「こんな話」とけなしている話とは、イエス様が47節以下で、ユダヤ人達に語られた言葉を指しているのです。

イエス様は、「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなた達の先祖は、荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。然し、これは天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない」と、言われました。このように、イエス様がユダヤ人たちに対して言われた、「わたしが天から降ってきたパンであって、これを食べる者は死なない」というお言葉に、ユダヤ人達のみならず、弟子達の多くの者も、拒絶反応を示しました。特に、弟子達の多くは、「天から降ってきたパン」というお言葉に、強く反応しました。憤慨する弟子達に向かって、イエス様は、62節で、「それでは、人の子がもと居たところに上るのを見るならば・・」と仰いました。
つまり、イエスは様、十字架に「上げられ」、次に、死人の内より「上げられ」、そして、天に「上げられる」ます。この事は、キリスト・イエス、即ち、言、ギリシャ語でロゴスは、肉体となって世に来られる以前、神と共にあった、と言う事から、当然の帰結なのです。

そして、イエス様は、重大な結論を明らかにされます。「命を与えるのは、“霊”である。肉は、何の役にも立たない」と、言われました。“神の霊”のみが、真の命を人に与えます。何故なら、人間は単なる動物以上の存在ですから、人格的な、愛の応答が無くては生きられません。このように語られたイエス様のお言葉の結果、弟子達の内には分裂が起こり、信仰と不信仰とが区別されるようになります。この為多くの弟子達が脱落して、イエス様を見捨てて、去って行きました。

イエス様は、このような時に12人の弟子達に言われました、「あなた方も、離れて行きたいか」と仰ったのです。その中にはイスカリオテのユダも居たのですが、彼が去らなかったのは、イエス様を、祭司長たちに引渡す計画が進んでいたからであろうと思われます。

ここで、ペトロが12人を代表して答えました、「主よ、わたし達は、誰の所へ行きましょうか。あなたは、永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ、神の聖者であると、わたし達は信じ、又、知っています」と言ったのです。イエス様こそ、永遠の命の言葉を持っておられる方なのに、そのお方を捨てて、一体何処へ行けばよいのでしょうか?と、逆質問をしています。

この、ペトロの立派な信仰告白に対して仰いました、「あなたがた12人は、私が選んだのではないか」。然し、この愛情溢れるお言葉は、それだけに終わるものではありませんでした。このお言葉の裏には、「何故?」という疑問も込められていたのです。それは、次のお言葉が、明らかにしています。イエス様は、「ところが、その中の一人は、悪魔だ」と、付け加えられました。

ここに、わたしたちは、最も深刻な、罪の秘密に触れてしまいます。イエス様を“信じる信仰”と、同じイエス様を、“敵に売り渡す裏切り”とは、紙一重の差でしかない、ということです。即ち、「イエス様を、神の子、キリストと信じる信仰」も、「イエス様こそ、永遠のロゴス。この方の許にしか、永遠の命は無いのだ、と信じること」も、全ては、わたしたち人間の側からの判断によるものではなく、神様からの生きた働きかけが無ければ、本物とはなり得ない、ということです。

ユダ自身の心の中に潜んでいた偽りが、いつの間にか大きくなって、重大な結果を惹き起こしたのです。イエス様が65節で仰っていた、「父からお許しが無ければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」という言葉のとおり、イスカリオテのユダには、父なる神からのお許しは無かったのです。

わたし達は、このような、信仰生活の最も深い局面において、自らできることは、「祈ること」だけです。わたし達が持っている信仰は、ただ、神様からの賜物であることに感謝しつつ、今週も歩みたいと願います。

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