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赦されること、赦すこと

赦されること、赦すこと
大坪章美

マタイによる福音書 6 章 7-15 節

イエス様は、「だから、こう祈りなさい」と、前置きをされて、仰いました、「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように、地の上にも」と、祈られました。この世では、時として、敵意や艱難が襲いかかって来ることがありますが、最終的には、善意の極みであられる「父なる神の愛」がわたしたちを包み込み、わたしたちはこの方を、「父」と呼ぶように、イエス様は、教えられたのです。

そして、父なる神様に対する呼びかけの後に、六つの祈りが続きます。イエス様は、第五の祈りとして、「わたしたちの負い目を赦して下さい。わたしたちも、自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈りなさい、と言われました。“負い目”とは、神様に対する負債のことですから、端的に申しますと、“罪”ということです。「わたし達の罪を赦してください」と祈るように求められたイエス様は、この祈りが聞かれることも、約束されています。「神様は、わたしたちの罪を赦して下さる」という喜ばしい音ずれ、これが福音です。

しかし、この、罪の赦しを願う祈りの後に、「わたしたちも、自分に負い目のある人を赦しましたように」という言葉も併せて祈るように、教えられました。
ここで問題なのは、私達の罪を赦して頂く為には、「私達自身に罪を犯した人を、私達が赦す」という事が、条件になっているのではないか?という事です。然し、これに対する回答は、明らかです。「神が赦して下さる」という行為は、何ものにも縛られない、“絶対意志の表れ”でありますから、如何なる条件も、前提もありません。信じて祈る者の罪は、必ず赦されます。

然し、そうすると、私達自身は隣り人の罪を赦す事なく、“自分の罪だけは赦される”という身勝手な願いに甘んじて良いのか、という疑問にぶち当たるのです。
かと言って、理屈では分かっていても、人間は、「人の罪を、現実に赦す」ことは難しいことです。人間の力では出来ない事かも知れません。本当に、この、「人を赦す事ができない」という心が消え失せないことこそ、人間の罪の姿であるようにも思えます。そして、一方では、神の御心は、「赦しなさい」という一言です。

わたしたちは、ここに至って、進退窮まってしまいます。動きのとりようが無くなってしまいます。ここに、本当の、命を懸けた切実な祈りが始まります、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも、自分に罪を犯した人を赦しましたように」との、主の祈りを祈ります。この祈りを、神様は、憐れみと恵みをもって、聞いて下さるのです。

イエス様は、主の祈りの最後の祈りとして、6番目に、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪いものから救ってください」と、祈るように言われました。“誘惑”とは、“試み”という意味でもあります。「試み」とは、信じる者を神から引き離し、滅びの中に引き込もうとする“悪魔の業”と、言うことが出来ます。この世は、神ご自身が造られたものであるのに、現実は、多くの不条理と災いが絶えることはありません。その謎の背後には、神に敵対する霊的な存在が潜んでおり、この闇の勢力の攻撃に対抗するためには、神の守りに依り頼む以外にはないことが、ここで、示されています。

ここまでで、イエス様が教えられた、“主の祈り”の言葉は終えるのですが、マタイはその後に、イエス様の言葉を付け加えています。「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父も、あなた方の過ちをお赦しになる」と、言われています。ここには、既に語られた、「隣り人への罪の赦し」の問題が、再度、取り上げられています。「人は、どのようにして、隣り人の罪を赦し得るか」という難問が語られています。その答えは、「まず、神の赦しがわたしたちの中に押し入って来て、その溢れる赦しが、さらにわたしたちから隣り人に流れ出し、赦しの実現になる」ということなのです。「赦し」の流れは、神の無限に大きな赦しから、わたしたち人間同士への赦しへ、という流れがあることを示しています。わたしたちも、今日から、兄弟姉妹赦し合い、御心の内を歩みたいと願っています。

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