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満ち足りることを知る者

満ち足りることを知る者
大坪章美

テモテへの手紙一 6 章 1-8 節

テモテへの手紙は、2通残っていますが、これは、殉教を目前にしたパウロが、エフェソ教会の愛弟子テモテに宛てた遺言と見ることができます。6章3節以下で、パウロは、偽教師との対決について教えます。まず、「異なる教えを説き、わたし達の主、イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基く教えにも従わない者がいれば、その者は、高慢で何も分からず、議論や口論に病みつきになっています」と、教えています。ここで、パウロは、偽教師達が教会から離れて行った、最も深い理由を述べているのです。それは、「自分自身を、内面から健全な者にしてくれるキリスト・イエスの御言葉から離れてしまって、教会の教えからも、自ら身を引いてしまった人々」のことを指しています。

真の道を歩むキリスト教会から離れて行く偽教師達は、いつの世にも、あるものです。その人達は、例外なく、「自分達こそ、より高い信仰の洞察に基いて行動している」と思い込んでいるのですが、実際は、そうではありません。彼らが教会を離れる本当の理由は、彼ら自身の、“高慢”つまり、“思い上がり”に基いているのです。

そしてパウロは、偽教師たちがこのような行動を取る、現実的な動機まで、暴いています。5節に述べていますように、「これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです」と、言っています。パウロは、このような偽教師達の行動を、不思議なことでも何でもない、と言うのです。その理由として、「人間は、高慢になると、理性を見失い、その結果、必然的に、自らを神の永遠の真理から遠ざける結果になる」からであると、言っています。

然し、逆説的な言い方になりますが、ある人々にとっては、「信心が利得の道である」という考え方は、決して、間違ってはおりません。この手紙の4:8節で、パウロは、「信心は、この世と、来るべき世での命を約束するので、すべての点で、益となるからです」と、述べています。然し、信心があるからと言って、全ての人々が、この、利得を得ることが出来る訳ではありません。それには、条件があるのです。その、ただ一つの条件は、「満ち足りることを知る」ということです。ここが最も大切な点でありますが、「満ち足りることを知る」心を持つことが条件です、ただ、それだけで、信心は、「利得の道」になるのです。では、「満ち足りることを知る」ことによって、どうして「信心が大きな利得を得ること」に結びつくのでしょうか。パウロは、7節で、「何故ならば、わたしたちは何も持たずに世に生まれ、世を去る時は、何も持って行くことが出来ないからです」と、その理由を、語るのです。

この言葉を耳にしますと、私達は、東の国一番の大金持であった、ヨブが語った、ヨブ記1:21節の言葉を思い出します。そこには、「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめ讃えられよ」というヨブの言葉が記されています。

「主は与え、主は取り給う」という言い方の背後には、人間が持っているすべての物は、「神が、貸し与えた物である」という考え方があります。イスラエル人の土地所有の根本は、人間自身も、土地も、本来、神の所有である、という考えですから、人の持っているもの全ては、自分の物ではなく、神の物であります。そうすると、それを、いつ、返還せよ、と要求されるかは、全く、神様のご自由です。「神に貸し与えられた物は、神に返してから世を去る」という考えに立つことが出来る者は、パウロが語った、「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」という言葉の中の、「満ち足りることを知る者」の条件を満たす者です。

ですから、現実の生き方を、パウロは8節で示しています、「食べる物と、着る物があれば、わたしたちは、それで満足すべきです」と記しています。

それ以上を望むことは、“欲望”の虜となり、魂は死に、生涯の歩みは、永遠の滅びの内に終わることになります。わたしたちも、神様に与えられた恵みを感謝しつつ、満ち足りていることに感謝して、歩むものでありたいと願っています。

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