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主の来臨の希望

主の来臨の希望
田中文宏

エレミヤ書 33 章 14-16 節 / ヤコブの手紙 5 章 1-11 節

 見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。(エレミヤ33:14)

エレミヤ書33章14節以下には、主がイスラエルの家とユダの家に恵の約束を果たす日が来ると預言されています。エレミヤが預言者として活動したのは、BC587年に滅亡した南王国ユダが亡国の一途を辿っていた時代でした。国家の滅亡に直面して、エレミヤが語ったのは、イスラエルの民の背信に対する厳しい神様の裁きでした。主なる神様を畏れることを忘れ、隣人を愛することを忘れたとき、そこに待ち受けているのは家族の崩壊であり、学校や社会の混乱であり、そして国家の滅亡ではないでしょうか。

エレミヤは、一方では徹底的に国家の罪ヲ断罪しますが、他方では裁きの後に実現される恵の約束、神の民の再建を預言します。エレミヤは、ダビデの若枝によって恵の約束が果たされることを語っていますが、ダビデの若枝とは救い主イエス・キリストを指し示す言葉です。そして、それから数百年の間、イスラエルの人々は、この救い主の到来を待ち続けることになります。私は幼稚園の園長を兼務していますが、この時期になりますとイエス様の降誕劇であるクリスマス・ページェントの讃美歌の中で、イスラエルの人達が救い主の到来を待つうちに何百年も経ちましたという言葉にいつも心を動かされます。厳しい現実を目の当たりにしながら、しかし、それでもなお希望を失わないで待ち続けるのです。待つということには、忍耐と祈りが求められます。そして、待ち続けるためには、約束してくださった神様への信頼と信仰が求められているのです。

さて、ヤコブの手紙5章1節以下には、この世の富に心を奪われている人々への警告と、忍耐と祈りが勧められています。このような勧めは、主が来られる終りのときが近いとの信仰に基づいています。主の来臨を待ち望むアドベントを迎え、私たちはヤコブの勧めを通して、自らの信仰生活を謙虚に省みたいと思います。

まず確認したいことは、終りの時には、この世の金銀は何の役にも立たないということです。たとえ巨万の富を築いたとしても、死んでしまえば何にもなりません。ヨブが語るように、私たちは裸で母の胎を出、裸で死んでいくのです。地獄の沙汰も金次第などと言われますが、地獄に金を持っていった人がいると聞いたこともありません。それでもなお、自分はクリスチャンであると自認しながら、この世の富に心を奪われているとすればどうでしょうか。あの富める青年のように、金持ちであることがイエス様に従うこと、神様の国に入ることへの妨げになってはいないでしょうか。しかも、手に入れた金銀が不正な方法によるものであれば、終りのときの裁きは厳しいのです。それゆえ、ヤコブは富に心を奪われている人達に厳しく悔い改めを迫っているのです。

次に、ヤコブは、主の来臨が近いことを教え、それゆえに忍耐と祈りを強調しています。忍耐については、雨と大地の実りを待ち望む農夫を引き合いに出して、私たちも祝福を信じて忍耐して待ち望むことを勧めています。また、裁きを受けないために、互いに不平を言わないように戒めています。このような辛抱と忍耐の模範として挙げられているのが旧約の義人ヨブです。ヨブの姿を通して、聖書の教える忍耐とは、ただ黙して忍び耐えるというようなことではなくて、神様は必ず応えてくださるとの信頼と希望に基づいたものであることを示されます。

待ち望むということは、決して安易で消極的なことではなく、むしろ、リスクを伴い、勇気を必要とすることです。アドベント、待ち望むという言葉は、アドベンチャー、すなわち冒険という言葉と結びついています。クリスマスの出来事は、私たちを救うために神様が危険を冒して愛する独り子を世に遣わしたことを意味します。この救いの恵を心に刻むところにアドベントの大切な意義があるのです。

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