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新しいエルサレム

新しいエルサレム
大坪章美

ヨハネの黙示録 21 章 22 節 – 22 章 5 節

今日、お読み頂いた、21:22節は、神の裁きが完全に遂行された後、神が統治される“新しい天と、新しい地”が、到来したところです。21:10節には、聖なる都エルサレムが、小羊の花嫁のように、降って来る様を描いています。都は、神の栄光に満ちており、神の栄光に輝いていた、と記されています。

この、全能の神、主と、小羊である、キリスト・イエスが臨在される都について、長老ヨハネは語っています。「この都には、それを照らす太陽も、月も必要ではない。神の栄光が、都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」と、言っています。神のご臨在が放つ永遠の光が、新しいエルサレムを明るく照らしています。長老ヨハネは、24節で、「諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る」と語っています。主なる神様は、異邦人を、聖なる都へ導く方なのです。神の、人類に対する神の目的がここに、あります。新しいエルサレムには、神と小羊という永遠の光がありますから、闇が来ることができないのです。長老ヨハネは、ここで、二つのことを言っています。ひとつは、「都の門は、一日中、決して閉じることは無い」、そして、ふたつめに、「その都には、夜が無い」ということです。

諸国の民がエルサレムの都に来るのは、礼拝を捧げるためなのです。そして、この都には、誰もが入れる訳ではありません。都に入れない者も居るのです。27節では、「汚れた者、忌まわしいことと、偽りを行う者は、誰一人、決して都に入れない」と、ヨハネは言っています。そこには、二つの、詳細な内容が述べられています。「忌まわしいことと、偽りを行う者」が、その内容です。まず、「忌まわしいこと」とは、偶像礼拝のことを指します。そして、二つ目の、「偽りを行う者」とは、真実や誠実に反する行いです。偽キリストも、この言葉で呼ばれます。このような、全ての偽りは、新しいエルサレムからは、除かれるのです。

そうすると、どのような者たちが、この新しいエルサレムの都に入れるのでしょうか。長老ヨハネは言っています、「小羊の命の書に、名が書いてある者だけが入れる」と言っています。「命の書」は、信徒の名簿なのです。父なる神と御子イエス・キリストが住む新しい都、エルサレムの城壁の中にもまた、命の書に、その名前を記された信徒だけが、住むことになる、と預言されているのです。そして、天使は長老ヨハネに、新しいエルサレムの状況を知らせています。「天使は、また、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川を、わたしに見せた」と、記されています。新しい都エルサレムと共に、かつて、アダムとエバの時代に失われた、パラダイスが再び帰って来るのです。命の木は、その根を通して、川の命の水を吸収して、その木の葉は、都にやって来る諸々の国民に癒しを与えます。21:4節に、「彼らの目の涙を、ことごとく拭い取って下さる。もはや死は無く、もはや、悲しみも嘆きも労苦も無い」と記されている通りです。

旧約聖書のヨブ記の主人公、義人ヨブは、人間が経験する悲しみや苦しみの、殆ど全てを味わい、辛酸を舐め尽くしました。19:26節では、「この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは、神を仰ぎ見るであろう」と、心からの願望を告白しています。

このように、心の底から、神の御顔を見ることを思い焦がれたヨブでさえ、直接御顔を見ることはできませんでした。更には、誰もが知っている、大預言者モーセにしても、神の顔を見る事は出来なかったのです。出エジプト記33:20節には、「あなたは、私の顔を見ることは出来ない。人は、私を見て、なお生きていることは出来ないからである」と、記されています。

しかし、新しいエルサレムでは、命の書に名前が記された、わたし達信徒は、御顔を仰ぎ見ることが出来るのです。神とわたし達の間を隔てるものは、何も無いのです。神の民は、神とキリストの栄光によって照らされ、神とキリストに対する服従の中に、永遠に亘って神と共に支配し、神と共に居ることが許されるのです。

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