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永遠の命に至る食べ物

永遠の命に至る食べ物
大坪章美

ヨハネによる福音書 6 章 25-33 節

今日、お読み頂いた、25節には、「そして、湖の向う岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った」と記されています。
イエス様は、このように、「昨日、ガリラヤ湖の東の岸辺の山で、イエス様が夥しい数の人々に与えられたパンと魚の供食」によって、空腹を満たされ、今、再び、肉体の糧を求めて、イエス様を捜し回っている群集に向かって、はっきりと言われました、27節です、「朽ちる食べ物の為ではなく、いつまでも無くならないで、“永遠の命に至る食べ物”の為に働きなさい」と、仰ったのです。「永遠の命に至る食べ物」とは、「イエス様の血と肉」を指しています。そして、「永遠の命に至る食べ物の為に、働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える、食べ物である」と言われたのです。

ここには、人間の本質が、記されています。人間の生き様、とは、「本当に生きたい。本当の命を掴みたい」という、激しい欲求で貫かれています。そのために、だれしも、哲学の本を手に取ったり、宗教の書物に目を通したりするものですが、実際に、それだけで満足することはありません。それは、丁度、「パンや魚を食べて、一時的な満腹感を覚えること」と、同じ現象です。一時的に、空腹を満たしても、心は、真理を求めて、新しい欲求に引きずり回され、いつまでも、“満ち足りた安らぎ”に到達することはありません。このような状況に終止符を打たれたのが、イエス・キリストなのです。ヨハネによる福音書の14:6節には、「わたしは道であり、真理であり、命である」というイエス様の言葉が記されています。キリスト・イエスという、真理に出会わなければ、人間の心は、いつまでも満たされることなく、放浪し続けるのです。

イエス様から、「永遠の命に至る食べ物の為に働きなさい」と言われた群衆は、「働きなさい」と言われても、具体的には、一体、何をすればよいのかが、分かりません。思い切ってイエス様に、問い返しました。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と、尋ねました。この、群衆の問いに答えて、イエス様は、仰いました、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われたのです。実際、イエス様を信じることによって、その時から、その人の人生、生涯が変わって来るのです。直ちに目に見えるようなものではありません。然し、時が経って振り返ると、その恵みの大いなることに気が付くのです。

然し、この簡単に思える事を自信に満ちた人間の、高ぶった心が受け入れるのは、実際容易な事ではありません。頑固な自己主張をかなぐり捨てて、幼児のように、神の御前にひれ伏し、賜る恵みを素直に受ける者にこそ、永遠に至る食べ物は用意され、天の御国への門が開かれるのです。人間に出来る事は、「自分の我を捨て、“信じる事”だけ」です。「信じるか、否か」が人間を分かちます。裁きも、そこから生じてきます。
ユダヤの群衆は、あくまでも、愚かさを暴露します。イエス様が仰った、「わたしを信じなさい」というお言葉に、何と、条件を付けるのです。30節に、「それでは、わたしたちが見て、あなたを信じることが出来るように、どんな“しるし”を行ってくださいますか」と、奇跡を行って下さるよう要求したのです。

イエス様は、「神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである」と仰いました。ご自分を、「命のパンそのものである」と言われるのです。

申命記8:3節で、モーセは、イスラエルの民に告げました。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのない、マナを食べさせられた。人は、パンだけで生きるのではなく、人は、主の口から出るすべての言葉によって生きることを、あなたに知らせるためであった」と、語りました。

そしてこの申命記の言葉が、ヨハネによる福音書33節、「神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである」という御言葉によって、成就されたのです。わたし達は、永遠の命に至る食べ物を食べることを許され、決して飢えることも、乾くこともなく、歩むことができる恵みを、感謝しつつ歩みたいのです。

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