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神の子とされる

神の子とされる
大坪章美

ヨハネの手紙一 2 章 28 – 3 章 2 節

ヨハネは、「さて、子たちよ、御子の内にいつも留まりなさい」と繰り返しています。そして、「そうすれば、御子の現れる時、確信を持つことができ、御子が来られる時、御前で恥じ入るようなことがありません」と記しています。著者ヨハネは、「御子、イエス・キリストが現れる時」、つまり、“再臨の時”を、念頭に置いているのです。イエス・キリストが既に一度、人となって世に現れ給うたことによって、キリストの到来がありました。その時から、人間の救いの時が始まったのです。そして、紀元30年、キリスト・イエスは、ゴルゴタの丘で十字架に架かられ、死なれた後、三日目に復活され、40日間、地上で過ごされた後、天に昇られ、父なる神の右の座に着いておられます。そして、キリスト・イエスは、自ら約束されたとおり、再び、地上に来られます。これが、再臨のことです。

ヨハネは、キリストの再臨が、間近に迫っていることを知らせようとしています。再び、キリストが神の栄えの中に現れる時、そのご支配は全世界に顕されます。その時、キリスト者が、再臨の主の前に立って、審きに耐え得るのは、御子、イエス・キリストとの交わりを堅く保っている場合だけです。「御子、キリストの内に留まっていること」、このことが、喜ばしい確信をもって、再臨の日を迎え得るための、前提条件なのです。この前提を満たしておれば、キリスト者にとって、恐ろしいものは、何もありません。キリストの審きの前で、恥じ入るようなことも無いのです。

次に、ヨハネは新しい考えを述べ始めています、「あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、“義”を行う者も皆、神から生まれていることが分かる筈です」と、記しています。この手紙の読者たちも当然、義を行う者であり、戒めを守って、神の御心に忠実に歩んでいる者でありますから、キリストに似ており、それによって、「神から生まれている」ということが分かるはずだ、と言っています。「神から生まれている」ということの意味は、霊的な誕生のことを指しています。洗礼を授けられた者は皆、霊的な誕生を経験していることになります。読者たちは、「神から生まれている」のですから、「神の子」であると言うのです。

ヨハネは、読者に向かって、「愛する者達、私達は今、既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、未だ示されていません。然し、御子が現れる時、御子に似た者となる、ということを知っています」と言っています。ヨハネは、「自分達は、今現在、既に、神から生まれた神の子であるが、これはあくまでも、現在のことである」と言っています。

「神の子」とされていることは、確かに、喜びでありましょうが、それは未だ、約束された最終段階ではない、と言っているのです。約束の実現は、将来にあるのです。そして、「将来、自分がどのようになるかは、未だ示されていません」と言っています。ただ、その中でも、はっきりしている事がある。それは、「御子が現れる時、御子に似た者になる」事であると言うのです。何故ならば、その時に、御子をありのままに見るからであると言っています。

ヨハネは、やがて、キリストが現れる時、「私達にとって、見えるお姿でご自身を現わされる」と言っています。イエス様が再び来られるその時には、神から与えられた栄光を帯びて、現れるのです。そして、この栄光をお受けになった御子キリストを見る事によって、私達は、栄光を受けた者へと変えられるのです。ヨハネは、「御子が現れる時、御子に似た者になるということを知っています」と言って、その理由を、「その時、御子をありのままに見るからです」と言っています。

3節には、「御子に、この望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」と、記されています。ヨハネが、「御子にかけている、この望み」と言うのは、「キリスト者が、御子に似た者になること」を指しています。この望みを持つ人は、それが、本当に、自らの上に実現するように努めます。御子が清いように、自分を清めるのです。

私たちも、神から生まれた、神の子とされていることを心に刻み、今週も、永遠の命を生きる者でありたいと願っています。

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