過去の説教

神の家族

神の家族
大坪章美

エフェソの信徒への手紙 2 章 11-22 節

今日お読み頂いた2章の初めは、パウロがエフェソの信徒たちに対して、“救われた者の恵み”を語っているところです。1節でパウロが言っています、「さて、あなたがたは以前は自分の過ちと、罪のために死んでいたのです」という言葉は、エフェソの信徒達に向けられた言葉です。聖書で言われている、“生きている”、或いは“死んでいる”という言葉は、一般の生物学的な「生と死」とは異なる側面から見ています。生物学的には生きていても、実際には死んだような状態にある場合を、「霊的な死」と、定義しています。パウロが、エフェソの信徒達に、「あなた方は、以前は、自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と、言っていますのは、今でこそ、“聖徒”と呼ばれているキリスト者達も、皆、かつては、自分の過ちと罪のために、死んだような状態にあった、ということを言っているのです。

そして、パウロは、このような、かつてのエフェソの信徒達のように、「自分の過ちと罪のために死んでいた」のは、決して、他人事ではない、と言い始めます。3節です、「わたしたちも、皆、こういう者たちの中に居て、以前は、肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに、行動していた」と、語っています。

パウロは、「異邦人もユダヤ人も、皆、人は誰でも、かつては、“死んだ者”であって、キリスト・イエスによって、甦らせられなければ、本当に生きている、とは言えないのだ」と、言っているのです。このように、「人間を、本当に生きている状態にすること」、即ち、「人間を、キリスト・イエスによって甦らせる」ことが、「憐れみ豊かな、神の愛」なのです。パウロは、10節で、「何故なら、わたし達は神に造られた者であり、然も、前もって準備して下さった“善い業”の為に、キリストにおいて造られたからです」と、記しています。ここで、パウロは、わたし達キリスト者の、パウロに対する疑念を、拭い去っていることが分かります。
この点が、重要な事ですが、パウロが言う善い行いは、救いの原因ではなく、救いの結果なのです。あくまでも、“神の救いの賜物”が、先行しています。善い行いは、神の救いを得る為になされるのではなく、神に救われ、恵みと慈愛を受けたが故に、なされるのです。

こうして、神の恵みの賜物として、救いに与ったエフェソの信徒たちへ、パウロは語りかけて居ます。2:11節です、「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは、以前は、肉によれば異邦人であり、いわゆる、手による割礼を身に受けている人々からは、“割礼の無い者”と呼ばれていました」と書き始めています。この言葉の中で、“異邦人”と“ユダヤ人”という、人類の二つの敵対関係にある者が対比されています。
このような両者を「ひとつの体」とするために支払われた代価が、“キリスト・イエスの十字架の死”でありました。今では、キリストにおいて、ユダヤ人もなければ、異邦人も無いのです。ただあるのは、「新しい一人の人」であって、神の民、兄弟姉妹なのです。

こうして、パウロは、愈々、結論を導き出します。19節です、「従って、あなたがたは、もはや、外国人でも、寄留者でもなく、聖なる民に属する者、“神の家族”であり、使徒や預言者という土台の上に、建てられています」と、記されています。エフェソの信徒達、異邦人は、もはや、外国人でも宿り人でもない。異邦人は、今やそのような者ではなく、聖徒達と同じ国籍を持つ者であって、完全な権限を与えられた“神の民”であり、“神の家族”の一員である、と言っています。
神の家族の長は、父なる神であり、御子イエス・キリストは長子であり、私たち教会員は兄弟姉妹なのです。

キリスト・イエスは、ご自分の血による贖いの契約によって、父なる神と、ご自身の関係を、私達キリスト者にも、与えて下さったのです。イエス様は、弟子達に、如何に祈るか、を教えられた時、マタイ6:9節、「天におられる私達の父よ」と祈るように言われ、神様との新しい関係を、明らかにして下さったのです。

わたしたちは、今日も、「天にまします、我らの父よ」と祈りながら、“神の家族”の固い絆に守られて、歩むことが出来るのです。

アーカイブ