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律法か、福音か

律法か、福音か
大坪章美

ガラテヤの信徒への手紙 5 章 7-15 節

ガラテヤの教会は、パウロの伝道の結果、生まれました。教会員の多数は、ユダヤ人ではなく、異邦人でありました。パウロは、この手紙を書く以前に、少なくとも2度、ガラテヤの信徒たちのもとに滞在して、伝道を行い、交わりを持ったのでした。然し、肝心なことは、パウロがガラテヤの信徒たちに福音を伝えた時には、律法を、ほんの僅かでも強制したり、それを守るように押しつけたりすることは無かったことです。

ところが、問題は、パウロが最後にガラテヤの教会を訪れた後に、パウロに敵対するユダヤ主義者達がガラテヤ地方に入り込んだ事でした。彼らは、「異邦人が、キリスト者になる為には、割礼や安息日等の律法を守ること」を強制したのでした。パウロは、この緊急事態を、どのようにして、乗り越えようとしたのでしょうか。それは、ユダヤ主義者達が「福音も、律法も、どちらも全うしなければならない」という立場であったのに対して、パウロは、「福音か、律法か」という、二者択一の形で迫り、反論したところにありました。

パウロが、「あなたがたを惑わし、真理に従わないように、邪魔をしている」と表現したユダヤ主義者の立場は、具体的には、直ぐ前の2節に、明らかに示されています。パウロは、「もし、割礼を受けるならば、あなたがたにとって、キリストは何の役にも立たない方になります」と言っています。ここは、パウロにとって、一歩も譲れない、瀬戸際でした。ガラテヤの信徒たちが、キリストの福音から漏れてしまうか否か、のギリギリの線であったのです。何故、パウロがここで踏ん張ったのか、と申しますと、今や、割礼を受けることの恐ろしさを、パウロほど、身に沁みて分かる人間はいない程、パウロには、分かっていたからです。

パウロは、“割礼の義務”を、キリスト・イエスがわたしたちに与えて下さった“キリスト者の自由”を、“奴隷の軛”に戻すものだ、と考えているのです。
ここで大切な事は、ユダヤ主義者は、キリストを信じている、と言い乍ら、律法、そして割礼を欠くべからざるものと考えました。これは、彼らユダヤ主義者の卑怯な振舞いであったのです。彼らは、同胞であるユダヤ人達からの迫害を恐れて、二股をかけたのでした。パウロの目から見れば、危険極まりない事でした。

パウロは、11節で言っています、「そのようなことを宣べ伝えれば、“十字架の躓き”も、失くなっていたことでしょう」と、言っています。キリスト者にとっては、「十字架上で死んだキリストへの信仰こそ、救われるための唯一の道」であります。然し、この考えは、ユダヤ人にとっては、「割礼や安息日を守る」といった、“律法を守ること”を、意味の無いものにすることに、他なりません。ユダヤ人たちにとっては、“キリストの十字架”は、あってはならないものだったのです。

そして14節で、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって、全うされるからです」と言っています。パウロは、5:3節で宣べました、「割礼を受ける人全てに、もう一度はっきり言います。そういう人は、律法全体を行う義務があるのです」と、言っています。人間は、その弱さの故に、律法を完全に守ることは出来ません。然し、パウロはここで、「キリスト者は、愛の実践によって、全律法を完全に果たすことができる」と、主張しているのです。然も、それは、キリストによる自由を得て、律法の奴隷から解放された人間だけが、愛をもって、互いに仕える事によって、律法を完全に果たす事になるのです。

パウロは、新しい生き方である、“愛の実践”について勧告します。「互いにかみ合い、共喰いしているなら」と、激しい言葉を用います。ガラテヤの信徒達が、互いに自分の正当性を一方的に主張して、相手の人格を無視して、その存在の可能性すら、危うくする程、非難、中傷する事を指しています。そこには愛のかけらも見えません。そして、「互いに滅ぼされないように注意しなさい」と言っています。「互いにかみ合い、食い合う」事の結果は、“滅び”という現実しかありません。私達は、キリストの十字架により与えられた自由を、愛の実践に生かすべき事を心掛けたいと思うのです。

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