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この世か、キリストか

この世か、キリストか
大坪章美

ルカによる福音書 6 章 20-26 節

6章20節には、「さて、イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた」と、記されています。イエス様が語りかける相手は、12人の弟子たちでした。イエス様は、これから、四つの幸いと、四つの災いとについて、語られるのです。

第一の幸いは、「貧しい人々は、幸いである。神の国は、あなたがたのものである」と、記されています。ここで、「貧しい人々」と呼ばれているのは、「誰が見ても、困窮していて、神の前で貧しい人たち」のことです。信仰のある貧しい人々は、神以外に依存すべきものがありませんから、すべてを神に委ねます。また、神の手から苦しみを受けている時でも、神から、見捨てられたのではない、と強く信じて、その苦しみを、将来のために必要な試練と考えます。ですから、最後には、天の国に入ることが出来るのです。

第二の幸いは、「今、飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる」と、言われた言葉です。

「飢えている人々」と、「満たされる」とは、両極端の状態を表しています。この全く異なる二つが、どのように結び付くのでしょうか。そのヒントが、イザヤ25:6節に見られます。飢えている人々には、万軍の主が、良い肉と古い酒を振る舞って下さるのです。「今、飢えている人々は満たされる」のです。

そして、第三の幸いが語られます、「今、泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」と、記されています。預言者エレミヤが、エレミヤ書31:15節で預言しています。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて、嘆く声が。ラケルが息子たちの故に泣いている。ラケルは、ヤコブの妻で、ヨセフとベニヤミンの母でしたが、下の子を産むと、間もなく死にました。ラケルの墓は、ラマにありました。紀元前587年、南王国ユダが、バビロニア軍に滅ぼされたとき、自分の子孫であるベニヤミン族の人々が捕囚の民として連れ去られる悲劇を見たのです。ラケルは、ラマで、息子たちの故に、泣いているのです。

しかし、突如、希望の預言が語られます。「主はこう言われる。泣き止むが良い。目から涙を拭いなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る」と、預言するのです。息子たちが敵の国から帰って来るのを見て、今度は、喜びの涙を流す、と預言しているのです。

そして、第四の幸いを、イエス様は語られます。「人々に憎まれる時、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる時、あなたがたは幸いである」と、祝福されました。このことは、ルカの時代に、ユダヤ教のシナゴーグからユダヤ人キリスト者たちが追放された、歴史上の事実を指していることと思われます。ユダヤ人が、キリスト者を迫害する、まさに、その場に、神が居給うのです。弟子たちの役割は、旧約の預言者たちの役割と同じものと、考えられているのです。

24節からは、一転して、これまでの四つの幸いに対応する四つの災いについての宣言がなされます。四つの幸いは、神の国に入るために必要な資格を示していますから、四つの災いは、逆に、神の国から追放される理由となるものです。

イエス様は、四つの幸いと、四つの災いとを宣告されました。イエス様が仰ったのは、「この世の基準で生きるか、キリストの基準で生きるか」ということです。人が、全身全霊を打ち込んで働けば、大きな財産を得ることは出来るでしょう。しかし、その人が得るのは、それだけのことです。しかし、人が、全身全霊を傾けて、神とキリストに誠実に生きようとするならば、それは多くの問題の渦中に巻き込まれることになるでしょう。この世の基準では、幸せではないように見えるかも知れません。しかし、その人の報酬はこれから与えられるのです。それを得る時、永遠の喜びとなります。生き方には、二つあるのです。この世の方法で幸いを得るか、或いは、キリストの方法で幸いを得るか。「天の喜びは、地上の苦しみを償うに十分である」と、イエス様は仰っています。

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