過去の説教

共におられる主

共におられる主
大坪章美

ヨハネによる福音書 14 章 1-11 節

イエス様は今、紀元30年のユダヤ暦ニサンの月、11人の弟子たちを前に、訣別説教、つまり、遺言とも言うべき言葉を語り始められます。イエス様は弟子たちに、「もうしばらくしか、あなたたちと共にいない。わたしが行く所に、あなたたちは来ることが出来ない」と、言われましたが、弟子たちには、イエス様が行かれる所が一体何処なのか、想像もできません。それに、「あなたたちは来ることができない」と、仰っているものですから、更に不安が広がったのです。

このような弟子達に対して、イエス様は仰いました、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われたのです。どうすれば、不安を追い払い、平静な心を保つことができるのでしょうか。イエス様は、その方法を教えて下さっています。
続けて仰いました、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と、命令されました。

然し、現実には、居合わせた弟子たちにとっては、厳しい状況でした。一方で、イエス様からは、別離の宣言をされ、「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができない」と突き放され、また一方では、「神を信じなさい、即ちわたしをも信じなさい」と招かれているのです。弟子たちにとりましては、この二つの現実の、あまりの大きなギャップの間で、どう理解すべきかを考えようもありませんでした。

イエス様は、この弟子達の戸惑いを、良く分かっておられました。弟子達の感じたギャップを埋める内容を話し始められたのです。2節です、「わたしの家には、住む所が沢山ある。もし、無ければ、あなた方の為に、場所を用意しに行くと、言ったであろうか」と、言われました。イエス様は、「弟子達がイエス様と共に居る場所が無くなる」という心配に応えられているのです。

3節では、「行って、あなたがたのために、場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしの許に迎える。こうして、わたしの居るところに、あなたがたもいることになる」と言われていました。イエス様は、「戻ってくる」と言われています。即ち、“霊”において地上に来られるのです。
「こうして、わたしがいる所に、あなた方もいることになる」というお言葉が実現するのです。言い換えますと、「イエス様が現在おられるところに、わたし達を、おらせて下さる」と仰っています。それは、”場所的な問題”なのではなく、“状態”なのです。イエス様と弟子達との間には、どうしても越える事のできない、“霊的な次元の違い”がありました。「わたしがいる所に、あなた方もいる事になる」という宣言は、今、イエス様がおられる“霊的次元”、その次元に、弟子たちや、私達を引き上げて下さる、という意味なのです。

そこで、トマスが言いました、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道を知ることができましょうか」と問いかけました。イエス様は、トマスの問いに答えて言われました、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ誰も、父の許に行くことが出来ない」と答えられました。父の御許に至るべき道は、イエス様ご自身に外ならないのです。イエス様を信じ、イエス様の愛の内に留まる事が、父の御許に至るべき道なのです。

7節で、イエス様は、「あなたがたが、わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今からあなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」と、仰っています。これは、“救いの現在性”が、ヨハネの語り方で、語られているのです。ヨハネによれば、「御子が分かる者は、父をも分かる」。即ち、その人は、永遠の命を受けているのです。もはや、闇と死の中に生きているのではなくて、既に、救われているのです。

父なる神様と、キリスト・イエスの一体関係は、血筋が繋がっているとか、姿形が似ている、というような人間的な関係ではありません。父と御子との、“意思の共同”なのです。父なる神様と、キリスト・イエスは、常にわたしたちと共に居て下さるのです。そのために、私たちは何をすれば良いのか。「キリスト・イエスを愛すること」、それだけで良いのです。

アーカイブ