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栄光を求める呻き

栄光を求める呻き
大坪章美

ローマの信徒への手紙 8 章 26-30 節

パウロは、今、神の霊を内に宿している私達、キリスト者の将来について語ろうとしています。18節です、「現在の苦しみは、将来、私達に現される筈の栄光に比べると、取るに足りないと、私は思います」という言葉に集約されています。「現在の苦しみ」というのは、「キリストと共に歩み、キリストと共に苦しむ、現在の歩み」の事を指しています。それは、この地上における、いろいろの、心と体で経験する災いや艱難や、迫害の事を言っています。この世で、肉に従うのではなく、神の霊に従って、キリスト・イエスと共に生きる時に、避ける事の出来ない、必然的な苦難なのです。

そして、この“将来の栄光”を、あこがれ、求める三つの“呻き”がある事を、話し始めるのです。その、まず第一が、人間と同じ運命に縛られている「被造物の呻き」です。パウロは、22節で、「被造物が、全て、今日まで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」と記しています。パウロは、全被造物が、その存在そのものをもって発する、嘆きとあこがれの声なき声が、全世界に満ち満ちているのを、痛いほどの思いをもって、聞いているのです。然し、自然も、人間も、全被造物も、虚無と壊滅の奴隷状態に陥りましたが、決して、究極の現実ではありません。なお、望みが残っているのです。その“望み”こそ、このすべての存在を、虚無と壊滅に閉じ込められた方が、“神”である、ということです。すべてを虚無に帰された神は、また、すべてを“有”にまで、即ち、無から有に、呼び出される方なのです。
将来の栄光を求め、あこがれる、第一の“呻き”「被造物の呻き」が、このことです。

そして、パウロは、将来の栄光を待ち望む、第二の呻き、キリスト者の呻きについて語ります。23節です、「被造物だけではなく、“霊”の初穂を頂いているわたしたちも、神の子とされること、つまり体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます」と、記しています。しかし、実際のところ、神の霊を受けて、永遠の命を受けている筈の私たちは、まだ、神の約束の満額を受け取ってはいないのです。神の霊を受けている、今の私たちの現実は、言わば、手付金に譬えられるでありましょう。神様は、この手付金によって、やがて賜ろうとする満期の金額、即ち、わたし達の体の贖いと、被造物すべての一新、という約束を為されたのです。今、神の霊を宿した私たちには、満期金額の約束の成就が待ち遠しく感じて、求め、あこがれ、心の中で呻きながら、待ち望んでいるのです。

そして第三の呻きが、8:26節です、「同様に、“霊”も、弱いわたしたちを助けて下さいます。わたしたちは、どう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せない呻きをもって、執り成して下さるからです」と、言っています。私たちの祈りが、その、祈るべき言葉も出ない程に弱い時にも、その無力さと無知とを担う力が働いて下さるのです。

パウロは、28節において、「神を愛する者達、つまり、ご計画に従って召された者達には、万事が益となるように、共に働くということを私達は知っています」と語っています。ただ、受動的で、何の求めも、意志も、働きも、無くて良い訳はありません。私達は、自分で求め、自分を献げ、熱心に祈り、決断して、自分を神の愛に投げかけるのです。そうすると、不幸や災い、苦難や死、信仰の弱さや祈りの無力さ等が経験されても、これらの全ての中で、神が支配され、導いて下さいます。神様は、常に、私達の思いの先手を取られます。これが、「神が共に働いて下さる」事なのです。

神が知っておられた私たちキリスト者の現実は、過去と未来の双方向に延びているのです。最初の鎖の環は、神が、永遠の初めに、ご自分に属する者を認知された時に始まります。そして、わたし達を召し出だして義なる者、正しいものとされました。救いの御業が具体的に実現されるのです。栄光への歩みは、既に始まっていますが、完成するのは、キリストの日なのです。そして、わたし達は、この不動の連鎖の中で支えられている以上、脱落することは、無いのです。

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