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神の恵み

神の恵み
大坪章美

エフェソの信徒への手紙 2 章 1-8 節

2:1節で、パウロは、エフェソの信徒たちに次のように言っています、「さて、あなたがたは、以前は、自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」その意味は、「あなたがた異邦人たちは、以前、自分たちの罪の中にあって、悪魔の力の下で、死んでいた」ということを指しています。パウロは、彼らが救われる以前の過去の歩みは、死んでいた状態であったことを、思い出させようとしています。私たちもまた、自分では見抜くことも、制御することも出来ない暗い力によって、罪を犯すように誘惑された時期がありました。
それは、神に背を向けて、肉に頼って生きる事、神無しに生きて、罪に満ちた自分に頼って生きる事を意味しています。このことをパウロは、「肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた」と、表現しているのです。そして、このような生き方をしていたユダヤ人は、他の人々、つまり、異邦人と同じように、「生まれながら、神の怒りを受けるべき者でした」と告白しています。人間が、苦しみの内にある時は、神様が働かれる場です。人間の絶望的な在り方と対照的に、神の“憐れみ”と“愛”、即ち、“恵み”が、人間の状況を逆転させたことが述べられています。

「しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちを、キリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に、天の王座に着かせて下さいました」と、記されています。ここには、“共に”という前置詞を含んだ言葉が三つ並んでいます。「共に生かし」、「共に復活させ」、「共に天の王座に着かせて下さいました」という言葉です。“救い”は、キリストと共に与えられるものです。“生きること”と、“復活すること”と、“天の王座に着かせて頂くこと”です。
私たちは、キリスト・イエスと共に、死んだ状態から復活させられ、どういう生き方をするのでしょう。平安な生活かも知れません。健康な生活かも知れません。しかし、このような生活は、地上の命が尽きると、すべて終わってしまいます。パウロは、フィリピの信徒への手紙3:20節で、「しかし、わたしたちの本国は天にあります」と、述べています。私たちは、天の国と連なる生活をすることによって、死を超えた救いに与ることが出来るのです。この“約束”は、死後の幸せにのみ望みを繋ぐような、“幻を追い求める”ようなものではありません。あくまでも、現在の、この地上における、天についての教えなのです。

次に問題なのは、このようにして救われた私たちは、どう生きるのか、ということです。神様は、この、私たちへの救いの出来事によって、神の限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとされるのです。「来るべき世」とは、“終末”のことではありません。現在に続いてやって来る未来の時代を意味します。茲に、終末論的な恵みの理解が現在化されているのです。私達は、この、神様の遠大なご計画に、自分自身の限界を感じます。「来るべき世に現わされる」と仰るのですが、私達の寿命は限られています。その後は、教会が行うのです。「神の恵みを世に現わす」という神のご計画を、世々担い続けるのは、教会を通して行われるのです。
パウロは、キリストの復活を、「死人の復活の初穂」として甦られた、と言っています。初穂とは第一番目ということです。第一番目があれば、二番目、三番目と続くものです。そして、私たち、信じる者の肉体は、キリストの再臨の日に復活するのです。

これを、パウロは、“神の恵み”と呼んでいます。実に、思い起こしますと、私たちは、罪の故に滅ぼされて当然の、死んだ状態であったにも係わらず、・・救われたのです。何の値打ちも無く、救われるに値しない者が、救われるから“恵み”なのです。
人間が救われるのは、イエス・キリストの救いの御業によるのです。人間の側からの働きかけによるものではありません。もともと、人間の救いは、値を要求されない、神の恵みの行為で始まっているのです。私たちにとって必要なことは、ただ、キリストにあって賜る、神の恵みを、喜んで受け入れることなのです。

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