過去の説教

近くにおられる神

近くにおられる神
大坪章美

使徒言行録 17章22-31節

パウロは、アテネの市内に偶像が夥しくあるのを見て、心に憤りを感じました。アテネには、当時少なくとも三千にも及ぶ神殿や神の像があったと推定されています。パウロは、安息日には会堂で、ユダヤ人や異邦人ユダヤ教徒に、又平日は、広場で、居合わせた人々と毎日、議論していました。彼らは、パウロが語る内容を理解できないまま、“アレオパゴス”に連れて行って、「あなたが説いている、この新しい教えがどんなものか、知らせて貰えないか」と、頼み込んだのです。

パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って、集まってきたアテネの人々に向かって、話し始めました。「アテネの皆さん、あらゆる点において、あなたがたが、“信仰の篤い方”であることを、わたしは認めます」と、アテネの市民を褒めたのです。然し、ここで“信仰の篤い方”と翻訳されている元の言葉の意味は、“神を恐れる人”という意味です。実は、パウロは、本音では、「迷信深い人」と考えていたのです。アテネの町には、ギリシャ神話に出て来る神々や英雄の像を街の至るところに祭ってありました。それらは異教の神々であり、神殿でありました。パウロの心の中に「憤りの気持ち」が湧いたのも無理はありません。

ですから、次に、一転して本質に迫る言葉を語りました、「あなたがたが拝む、いろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それであなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを私はお知らせしましょう」と言って彼らの心の中に空いた空洞、不安に脅える心に訴えました。

アテネの市民たちは、万が一のことを考えて、自分たちが未だ知らない神々にも、礼拝が捧げられるように、「知られざる神々に」という祭壇を築いたのでした。パウロは、この、アテネの人々の不安な心に訴えかけます。アテネの市民たちが、「知られざる神々」として、念のために礼拝していたお方こそ、「ただ1人の神である、天地宇宙の創造者である」と語っています。パウロは、神は、何ものをも必要とされません。何故なら、神はあらゆるものの創造者であり、所有者でありますから、あらゆるものを与えこそすれ、必要とはされないのです、と言っています。25節では、「すべての人に命と息と、そのほかすべてのものを与えて下さるのは、この神だからです」と、言っています。まさに、パウロがアテネの人々に語った、「全ての人に、命と息と、その他、全てのものを与えて下さるのは、この神だからです」という言葉のとおり、神様が、被造物である人間の必要なものを全て、与えて下さり、すべての人々に、「命と息と万物」とを与えて下さるのです。

そうしますと、人間の幸福のために、このような摂理をもって、時と場所を配置される神の意図は、一体何が目的なのか、ということが、問題となってきます。パウロは、この答えを、27節で述べています、「人に、神を求めさせるためである」、「人間が深く求めさえすれば、神を見出す事ができるようにする為だった」と、言っています。そして、「実際、神はわたしたち一人ひとりから遠く離れておられません」と言っています。

そして、「神は、このような無知な時代を、大目に見て下さいましたが、今は、どこに居る人でも、皆、悔い改めるようにと、命じておられます」と、言っています。神が、大目に見て下さった“無知な時代”とは、キリスト・イエスの復活以前迄の時代のことです。復活後の“無知”は、赦されません。その理由は、「神がお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日を、お決めになったからである」と言っています。

パウロが説教で語った、「死者の復活」ということを聞いて、ある者は、「あざ笑った」と、記されています。しかし、イエス様の復活にせよ、人々の復活にせよ、このような話を聞いた人の反応は、二千年前のアテネでも、今の日本でも、同じようなものです。然し、その中に、信じる人もいるのです。34節には、「然し、彼らについて行って、信仰に入った者も、何人か居た」と、記されています。そこには、神様の選びの御手が働いていました。私たちも、選ばれた民として、イエス様の御後に従う者でありたいと願っています。

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