過去の説教

愛する者を鍛える主

愛する者を鍛える主
大坪章美

ヘブライ人への手紙 12 章 1-3 節

著者は、「こういう訳で、わたしたちもまた、このように夥しい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を、忍耐強く走り抜こうではありませんか」と、記しています。著者が語っている、「こういう訳で、わたしたちが夥しい証人の群れに囲まれている」という言葉の意味は、11章で語られた事を指しています。

著者は、旧約時代の人々の信仰を賞賛して、その模範を、歴史的に三つに区分して述べています。まず一つ目が、カインとアベルからアブラハムまで、次に二つ目の時代、モーセの時代に入ります。そして三つ目の時代、士師の時代からマカバイ時代までに入ります。

著者も、このように一人ひとりの事績を記していたら、いつまでかかるか分からない、と考えたのでしょう、「士師や預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう」と、記しています。そして、著者は、カインとアベル以来のイスラエルの歴史において、「信仰によって望んでいる事柄を確信し、未だ見ない事実を確認する」ことによって、偉大な救いの御業に参与した人々の行いを、証人として紹介してきました。

これまでのイスラエルの歴史の上では主役であった旧約の義人達は、今や、「夥しい証人の群れ」として、私達がコースに立っている円形競技場の回りの観客席から、新約の時代の者達の競走を見守っているのです。この証人達の支えのもとに、今や、私達キリスト者は、信仰のコースを走らなければならないのです。観客席にいる旧約の義人達、夥しい数の証人の群れに気遣って、外見を気にして走ることは要求されていません。むしろ、食いついて、離れない走りが必要なのです。

著者は、キリスト・イエスが私たちの信仰を完全なものに導いて下さると、考えています。ですから、イエス様をひたすら見つめながら走り続けるならば、必ずゴールに達することが出来ると、記しています。今、このヘブライ人への手紙の読者であるユダヤ人キリスト者達は、迫害の恐怖に苛まれ、信仰に倦み疲れて、「気力を失い、疲れ果てようと」しています。著者は、読者達が、そのようにならないように、イエス様のことを良く考えなさい、と教えています。著者は、読者であるユダヤ人キリスト者に伝えようとしているのです、「ご自分に対する罪人たちの、このような反抗を忍耐された方のことを良く考えなさい」と言っています。そうすれば、あなたたちが、キリストの福音を放棄するようなことはないであろう、と言っているのです。

引用された箴言3:11-12節には、「わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父の様に、主は愛する者を懲らしめられる」と、記されています。同じ様に、神様も、その家族であるキリスト者を厳しく鍛えられる、と教えているのです。神に仕え、神を崇める者達でも、時として、災い、苦難に遭遇しますが、そのような試練は、神が自ら、愛する者達を訓練する方法であって、それは、神がその人を愛し、慈しんでおられる証拠なのです。

私たちの肉の父は、地上の生涯という短い期間だけに役立つ人間を育てようとしたに過ぎませんでした。しかし、「霊の父」である方、言うなれば、私たちの霊的存在、魂の創り主なる方は、本当に、私たちにとって、最良のことをなさいます。それは、私達が神の聖さによって生きる、永遠の命を生きるという目的を、父なる神様は実現して下さることを意味します。この結果言えるのは、「キリスト者にとって、全ての苦難は、やはり、彼らの信仰の試み」なのです。そして、キリスト者にとって大切な事は、いつも、信仰の導き手として先頭を行かれるイエス様を見上げる事なのです。

著者は終わりに、イザヤ書35章3節を引用します。「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を』」。旧約の義人たちが、観客席で、大勢、証人として、この円形競技場のコースを見下ろしています。私たちも、弱った手に力を込めて、よろめく膝を強くして、今立っている信仰のコースを、先導されるイエス様に従って走り通したいと思うのです。

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