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義人の祈り

義人の祈り
大坪章美

ヤコブの手紙 5章 7-16 節

この手紙で、主の兄弟ヤコブが、パレスティナの外で生活しているユダヤ人キリスト者たちに伝えようとしていることは、“救い”の問題についてです。それは、イエス・キリストを信じる者の生活に、否応なしに襲ってくる、試練と誘惑からの救いでありますし、また、救いが齎すキリスト者の生活の倫理の意味です。
ヤコブは、教会が世俗化して行くことに警告を与えています。教会の人々が、神の意志に従うよりも、世俗社会の価値観の方を優先して考えて、信仰者として本来持つべき姿を失ってしまっていることに、厳しい非難を浴びせるのです。そして、教会が世俗化して行く実態の背後に、パウロの「信仰義認」の考え方を見ているのです。その上で「信仰とは、ただ、心の中だけの信心で終わるべきではない。行為を伴って具体化する時にのみ、本物となる」と、訴えるのです。

ヤコブは、5:7節で、「兄弟たち、主が来られる時まで、忍耐しなさい。」と記しています。この、「忍耐しなさい」という教えについて、ヤコブはすでに、冒頭の1:3節以下にも、述べていました。そこには、「信仰が試されることで、忍耐が生じると、あなたがたは知っています」と、教えています。忍耐を生み出すために、「信仰が試される」ということは、直前1:2節の、「いろいろな試練に出会うとき」のことを指しています。ヤコブが思い描いている“試み”や“誘惑”は、手を変え、品を変え、次々に襲いかかってくるさまざまな苦しみ、困難、過酷な運命、そして、彼らの行く手に真っ向から立ちはだかって、生きる力を奪い去り、勇気を挫き、遂には、信仰の基盤そのものを危うくしようとする迫害の出来事なのです。然しヤコブは、「これらの試練や誘惑に出会う時、この上ない喜びと思いなさい」と勧めています。信仰が試され、これに耐える事により、忍耐力が身に付くからです。主イエス・キリストが再び来たり給うその日まで、忍耐強く耐え抜くように、と勧めています。神様は、抑圧と不条理に苦しむ神の民の為に、やがて、正しい審判を行い、彼らの踏みにじられた権利の回復を実現されるであろうという確信に満ちた希望を語っているのです。

主が再び来たり給う時を知ることは、人間には許されておりません。然し、少なくとも、ひとつのことだけは、確かです。主の再臨が目前に迫っている、いつ起きてもおかしくはない、ということです。そして、ヤコブは、再臨の日、神の裁きを受けない為に取るべき態度を示します。「兄弟たち、裁きを受けないようにする為には、互いに不平を言わぬことです」と言っています。他の人を裁く行為は、そのことによって、神の裁きにかけられるからです。然も、その裁きは、はるかかなたの未来の話ではありません。ヤコブは、「裁く方が、戸口に立っておられます」と語っています。ヤコブは「あなた方の中で、苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は賛美の歌を歌いなさい」と記しています。そしてこの手紙を書き終えるに当り、キリスト信徒の人生に於いて起こり得る状況に焦点を当てて、その状況をどう受け留めるべきかを述べています。

端的な例が、“病い”と“健康”の問題です。どちらも、神の前で、“病い”は祈りにおいて、“健康”は賛美において、問題とされなければなりません。
ヤコブは真の癒しを、主に委ねています。病人の枕元で、主の御名が唱えられることは、主が助け主として呼び求められることですから、来たり給う唯一の真の医者なるキリスト・イエスは、この病人の身に、癒しの御力を具体的に現わしてくださるのです。

ヤコブは、祈りの力の大いなることを、心の底から確信しているのです。「正しい人、義人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」と、記しています。

では、“義人”とは、どのような人のことでしょうか。それは、神から御前に立つことを許され、その内面に於いて神と深く結ばれ、日々の歩みにおいて神を恐れる生き様を貫いて、心と心とをもって、神と交わる人、そのようなキリスト者の祈りに他ならないのです。私たちも、神の御前に正直に打ち明け、互いのために祈る者でありたいと願っています。

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