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主に従うことこそ「道」

主に従うことこそ「道」
大坪章美

ヨハネによる福音書 13章 36 節- 14 章 7 節

その頃、ユダヤでは、過越しの祭が近づいていました。過越しの祭は14日の金曜日に行われますが、その前日、13日の木曜日に、イエス様と弟子たちは、最後の晩餐を摂られました。そして、この時、イエス様は、弟子たちに不思議なことを仰いました。13:33節です、「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共に居る。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたがたは来ることが出来ない』と、ユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも、同じことを言っておく」と、言われたのです。

この、イエス様が言われた、「わたしが行くところに、あなたたちは来ることが出来ない」というお言葉を、どうしても理解できない、シモン・ペトロがイエス様に質問しました、「主よ。どこへ行かれるのですか」。ペトロは、このイエス様のお言葉を、この世の、「地上における移動」と理解したのでした。これに対するイエス様のご返事、「あなたは今、ついて来ることは出来ないが、後でついてくることになる」というお言葉によって、「イエス様が『去って行く』と仰るのは、十字架上で死ぬとき、この世を去って、父の御許へ帰ることだ」という意味であることが分かります。

しかし、ペトロは、イエス様のお言葉を、「自分には、イエス様について行く勇気が無い」と言われたものと受け取って、もう一度、イエス様に訴えます、「主よ、何故、今、ついて行けないのですか。あなたの為なら、命を捨てます」と申し上げたのです。ここには、ペトロが相変わらず、十分に分かっていない姿が現れています。ペトロは、「人間が自由意志によって命を懸ける」という問題と、「神から遣わされた者が、神の御許へ帰る」という問題が、全く違うことであるのが、分かっていなかったのです。イエス様が「父の御許へ帰られる」、という十字架上の死の意味を、どのように理解すべきなのか、ヨハネは、14章で記しています。1節です、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と、イエス様は言われました。イエス様が、父の御許に去って行かれた場合、弟子たちは孤独と不安に脅かされるであろうが、神を信じ、イエス様を信じることによって、心を騒がせないように、勧めておられます。この世は迫害するであろうが、いつまでも迫害は続かない、と言われているのです。

イエス様は、弟子達に、いつまでも、不安な思いにさせてはおかない、と言われるのです。「わたしの父の家には住むところが沢山ある。もし無ければ、あなたがたの為に場所を用意しに行くと、言ったであろうか」と仰るのです。そして4節で、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている」と言われました。
その“道”とは、イエス様ご自身のことを指しています。「道」について分かっていれば、その道が通じている所も分かることになります。ですから、イエス様が仰る、「わたしに従いなさい」というお言葉は、重要な意味を含んでいます。つまり、「イエス様に従うこと」が、「道を歩むこと」なのです。イエス様の十字架は、復活への道です。そして、イエス様が「わたしの行くところ」と仰るのは、「父の御許」なのです。
イエス様は答えられました、6節です、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」と言われました。イエス様ご自身が「道である」ということは、キリスト・イエスにおいて道が導くところの「父の御許」が明らかになるのです。
イエス様は、父のもとへ至る道です。「わたしを通らなければ」という言葉は、「わたしを信じ、わたしに従わなければ」という意味です。言い換えますと、「イエス様を信じ、イエス様に従う者は、死と復活を辿って、父の御許へ行く」のです。父なる神の御許に行くことが、最終目的であり、命なのです。「御子イエスを知る」ということは、「永遠の命」を受けることです。このことが分かった者は、もはや、この世の闇と、奴隷の軛と、死の中に生きているのではなくて、既に救われているのです。今週も、主イエスなる道を通り、恵みに満たされて、歩む者でありたいと願うものです。

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