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神の真理

神の真理
大坪章美

ローマの信徒への手紙 1章 16-23節

パウロが言う、「わたしは福音を恥とはしない」という言葉は、告白の言葉でありますが、“福音”とは、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば死者の中からの復活によって、力ある神の子と定められたのです」という事を指しています。このパウロの決意は、自分の内からではなく、福音そのものから生まれています。福音は、信じる者全てに救いを齎す神の力だからです。神様は、福音の中に、神の生ける力をもって働き給うのです。この力が人を救い、人に命の幸いを齎すのです。キーワードは、「信じる者全て」です。信じさえすれば、ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、救いの力を経験する事が出来るのです。

そして、17節では、「福音が、信じる者すべてに救いをもたらす神の力である」根拠を示します。それは、「福音が、“神の義”を啓示するものだから」なのです。
平たく言えば、「神の義は、人が信じる所でのみ、その人の上に、また、その人に対して、生ける現実となる」ということなのです。言い換えますと、「正しいものは、信仰によって生きます」、「何故ならば、その理由は、不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されるからです」と言っているのです。ここで言われている”不義”とは「義なる神に対する背信」のことを指します。
そして、この、神の怒りが完全に現れるのは、この世の終わり、つまり最後の審判においてです。然し、パウロは、ここでは、特に、今、ここに、「啓示せられている」と言っています。神の御怒りは、既に、今、その御業を推し進めつつあるのです。それは、人類に向かって注がれます。今、ここに、現在、将来的審判が神によって現され、遂行され、私たちの目の前に進行しつつあるというのであります。パウロは、「人間は、不義によって、真理の働きを妨げる」と、言っています。ここで大切なことは、「“真理”とは何か」ということです。
この“真理”とは、“虚偽”に対する“真理”ではありません。“神の真理”のことです。神はモーセにご自身の名前を示されて、「わたしは在って在る者」と言われました。これが、“神の真理”です。「神は神であって、人間は被造物です。それ故に、人間は神を神として知り、服従し、愛し、崇めなければならない」という真理なのです。ですから、この、“神の真理”は、“神と人間との正しい関係”を保つことを要求されます。

パウロは、「人間が不義によって、真理の働きを妨げる」と言っていますが、この“不義”とは、「人間が、被造物であることを忘れて、神を拒み、否定するところに生じる悪」という形で現れるのです。パウロは、神を、「目に見えない存在」と言っています。そして、この「目に見えない神」の性質として、「永遠の力」と、「神性」を挙げています。神の方から、被造物においてご自身を啓示され、人は理性によって、これを理解することが出来るのです。神が人間の責任を追及される時、人間は、「神など、はるか彼方の存在で、経験も認識も及ばないので、神のことは全く知らない」と言って、済ますわけにはゆかないのです。
それなのに、とパウロは言います、「神として崇めることも感謝することもせず、かえって空しい思いに耽っている」と非難しています。「空しい思い」とは、「被造物である自然や、人間が手で造った偶像を礼拝したり、占いなどを信じること」を指します。造られたものを拝むことほど空しいことはありません。むしろ、造り主を崇め、感謝すべきなのです。神に栄光を帰さない精神は、内面の充実も、尊厳も保つことは出来ません。人間の心は、内面的な命の器官であって、真理を受け入れる受信機でもあるのです。その受信機である心を、神の啓示である「永遠の力」と「神性」に波長を合わせることを拒んで、自己を閉ざすならば、自ら光を奪われ、闇となることが記されているのです。

滅びる事のない神の栄光は、聖なる神の現在の輝きです。私たちは、神の真理の中にあって、神の義を信じ、悔い改めることによってのみ、救いの力に与ることが出来るのです。

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