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キリストの従順

キリストの従順
大坪章美

フィリピの信徒への手紙 2章 1-11節

パウロは、この手紙を、牢獄の中から書き送っています。1:17節に、「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他、全ての人々に知れ渡り、」と記されていることから分かります。自分が牢に繋がれているのは、むしろ、嬉しいことなのだ、何故なら、裁判の場で、その土地の有力者やローマの役人の前で、堂々とキリストの福音を語ることができるから、そして、その自分の姿を見て、主に結ばれた多くの兄弟姉妹が、福音の確信を得るであろうから、と記しているのです。

パウロが牢に繋がれたという情報は、時を置かずして、フィリピの信徒たちへもたらされたものと思われます。その時、信徒たちは、パウロのために献金し、集まった見舞いの贈物を、信者のひとり、エパフロディトに託して、パウロの許に送り届けたのでした。これに対して、パウロは、フィリピの信徒たちのために、お礼の言葉を述べるだけでは満足しないで、キリストの福音伝道の状況についても報告して、福音にふさわしい生活をするように、彼らが、信仰と希望と愛による歩みを為すように、との勧めを手紙に記したのです。

パウロは、フィリピの信徒たちに、利己心や虚栄心とは真反対の、「生まれながらの人には、全く異質の生き方」、言い換えますと、「へりくだって、相手を自分よりも優れた者とする」生き方を求めています。「相手を自分よりも優れた者とする」生き方は、“罪深い自分に絶望する者にのみ可能な生き方”なのです。それは、「恵みの支配」に徹底的に服従する生き方です。

このように、パウロは、「心を合わせ、ひとつ思いになる」ことの必要性を説いてきましたが、6節からは文体を全く変えて、原始キリスト教の時代に歌われた歌、いわゆる“キリスト賛歌”をここに記しています。

最初の2行は、天地創造よりも先におられたキリストのことを述べています。あくまでもキリストが主体です。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」とあります。キリストは、天地創造の前から神と同じ形であられたのに、その立場に固執されることなく、自分を無にし、奴隷の形を取って、一人の人間になられた、と歌っています。

キリスト賛歌は、続いて、「人間の姿で現れ、へり下って、死に至るまで、それも、十字架の死に至るまで、従順でした」と歌います。「十字架の死に至るまで従順でした」という言葉は、天地創造の前から存在された神と等しい者が、人間として死なれたことを表しています。キリスト賛歌の前半部分では、先在の神キリストが、主体的に、ご自分の意志で、人間の姿を取られたこと、それも、最も下層の、僕の形をとられ、十字架の死に至る迄、従順であられたことが語られました。

然し、後半部分では、これが全く異なってきます。もはや主体となっておられたキリストは、行動の主体ではなくなります。後半9節は、「このため、それ故に」という言葉で始まります。「キリストが死に至るまで従順であられたが故に」なのです。「神は、キリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」と記されています。キリストが、十字架の死による断絶を惹き起こされたが故に、「あらゆる名にまさる名を、全く新しく与えられた」と述べているのです。その名は、“主、キリスト”です。「天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの御名にひざまずく」のです。旧約聖書の女性、エリコに住むラハブという名の遊女が、イスラエルの神を讃えて言った言葉が、「あなたがたの神、主こそ、上は天、下は地に至る迄、神であられるからです」という、神を賛美する言葉でした。

このラハブの告白が、パウロが語りました、「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神を讃えるのです」という言葉によって、実現したのでした。

私たちも、神の前に従順に、ひとつ思いになって、恵みの内に歩みたいと願います。

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