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真の信心

真の信心
大坪章美

ヤコブの手紙 1章 19-27節

ヤコブの手紙の著者は、古代教会の伝承では、主、イエスの兄弟のヤコブであると伝えられています。

主の兄弟ヤコブがこの手紙を書きました目的は、キリスト者の信仰が口先ばかりで、実践に乏しいことを非難して、試練によって動揺した信仰を戒めることにありました。ヤコブは、実践を重んじる人物で、信仰が口先だけの告白、或いは、心の中だけの信心に終わってしまってはならないと、強く訴えるのです。ヤコブは、「信仰は、行為として具体化する時にのみ本物である」と主張しています。これは、行為義認という考え方で、パウロが主張した「信仰によってのみ義とされる」、即ち、信仰義認という考え方と相反するように思われがちですが、そうではありません。キリスト・イエスが言われています、「神の支配に服して、これを信じ、受ける者は、神の御心を行わなければならない。」と要求しておられます。パウロの主張通り、信仰によって義とされたキリスト者は、御心を実践し、行為する事によって、信仰を実証しなければならないのです。

ヤコブは、「御言葉を行う人になりなさい」と、命じます。22節です、「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と続けています。「御言葉を聞く者は、行う者にならなければならない」、これこそが、ヤコブが伝える福音にとって、決定的な意味を持つ命題なのです。このヤコブの勧告は、イエス様が宣べ伝えられたところと完全に一致しています。例を挙げますと、マタイによる福音書7:26節に、イエス様のお言葉があります。そこには、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は、皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」と記されています。

この、「自由をもたらす完全な律法」である神の言葉を例示するならば、マタイによる福音書7:12節に記された「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたも人にしなさい。これこそ、律法と預言者である」というイエス様のお言葉です。

それでは、正しい信心の在り方とは、如何なるものなのでしょうか。人は、如何なる態度を取ることによって、本当に、神を崇めたと、言えるのでしょうか。

ヤコブは、27節の最後を、「これこそ、父である神の御前に、清く、汚れの無い信心です」と締めくくっています。ヤコブが、「清く、汚れのない神の崇拝」と言っておりますのは、“隣人に対する愛の行為”に外ならないのです。そして、隣人愛の事例としてヤコブが挙げているのが、27節、「みなしごや、やもめが困っている時に世話をすること」と記しています。困窮のうちにある人々を見舞い、助けの手を差し伸べることを、隣人愛の業として挙げているのです。また、ヤコブは、「みなしごややもめを見舞い、世話をすること」と共に、「世の汚れに染まらないように、自分を守ること」をもって、「父である神の御前に、清く汚れの無い信心です」と勧めています。ヤコブは、「自分を聖別すること」を勧めます。何故ならば、聖別されて生きることを絶えず心掛けていない者は、隣人への奉仕において、神を崇めることができないからです。

このように、御言葉に従い、隣人を愛し、自ら自分を律する者こそ、神の御前に清く、汚れの無い信心、神への崇拝であるという考えは、既に、箴言でも歌われていることなのです。箴言21:3には、「神に従い、正義を行うことは、いけにえを捧げるよりも、主に喜ばれる」と、歌われています。神様にとって、最も大切なものは、「神に従い、正義を行うこと」なのです。

この箴言の著者、ダビデの子、ソロモンが記した、神様が最も喜ばれること、どんないけにえよりも、どんな捧げ物よりも喜ばれることが、「神に従い、正義を行うこと」即ち、「みなしごややもめなど、困窮の内にある隣人を愛し、自らを世の汚れから聖別されて生きること」なのです。ヤコブは、「これこそ、父である神の御前に清く汚れの無い信心である」と言っています。

私たちも、隣人を愛し、自らを清く保って、真の信心を行う者でありたいと願います。

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