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主の御名を呼ぶ者

主の御名を呼ぶ者
大坪章美

ヨハネによる福音書 16章 16-24節

時は、過越の祭の前、ユダヤの暦でニサンの月の13日の事でした。この日の晩に弟子達と最後の晩餐の席に着かれ、翌14日、過越の祭の当日に、イエス様は十字架に着けられ給うたのです。そして、16:16節に記されていますように、その夜、イエス様は突然不可解なお話しを始められました。「しばらくすると、あなたがたは、もうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と、言われたのです。弟子達には、この意味が全く分かりません。弟子達には“復活”という事が分からないので、イエス様の言われている事が分からなくなっているのです

イエス様は、「あなたがたは、泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言われました。イエス様は、ご自分が神の御許に行ってしまうと、自分たちを脅かし、憎んでいるこの世に、弟子たちが孤立無援で、悲しみのうちに取り残されるであろうことを、認めておられます。然し、「あなたがたの悲しみは、喜びに変わるであろう」と、続けて語られました。弟子たちが嘆き悲しみ、この世が、喜びに浮かれるのは、ほんの束の間でしかない、と仰っているのです。弟子たちの大きな嘆きが、歓喜に変わるからです。悲しみの真っただ中にあって、それは、喜びに向かっているのです。

イエス様は、ここで、対象を弟子たちに絞って、母親が子供を産む時の苦しみと喜びの譬えを解き明かされます。22節です、「ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。然し、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」と、告げられました。そして、更にイエス様は、「その喜びを、あなたがたから奪い去る者はいない」と、付け加えられました。この喜びは、弟子たちが、そして私たちがかつて経験したことが無い喜びです。この、「再びイエス様とお会いできる喜び」は、奪われたものを再び得るというような、単なる過去の回復ではありません。質的に全く新しい、天来の、天から来る喜びでありまして、これは、もはや誰からも奪われることは無いとイエス様は言われます。肉において生きています私達の人生は、病気や貧困、災害、さらには人の悪意や攻撃などによって、脅かされ、木の葉のように弄ばれています。

然し、洗礼を受けた時から、肉における古い自分に死んで、同時に、霊に於いて復活のイエス様と共に歩み始めた私達にとっては、私達の命は既にキリストと共に、神のうちに隠されているのであって、この喜びは、もはや地上の人間関係や自然現象など、有為転変に晒されても、決して弄ばれることは無いのです。そして、イエス様は言われました、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」と言われたのです。イエス様が、私達の罪を全て贖って下さったのですから「そのイエス様の名によって」父なる神様に祈るのです。「今まで」つまり、イエス様が地上で伝道され、父なる神様の御許へ行かれていない間は、弟子達は、イエス様のお名前によって祈り、願う事は出来なかったのです。

然し、今や、イエス様は、その死によって神の御許に上られ、弟子たちの祈りを執り成す存在として、新しい役割を果たされるのです。そして、イエス様の「死と復活」の中には、更に深い真理があったのです。婦人が、子供を産む苦しみを経験をしても、子供が生まれると、その喜びがあまりにも大きい為、産みの苦しみを忘れ去るように、イエス様との別離の悲しみを経験した弟子達は、復活のイエス様に再会する事によって、決して誰にも奪われる事の無い喜びを与えられました。これは、この弟子達が、これまで、世に属していた古い命に死んで、復活のイエス様と共に、復活の新しい命に甦った者である事を示しています。この世に属していた弟子達の命は、周囲の動きによって影響を受け、いとも簡単に奪い去られました。然し、イエス・キリストの復活と共に甦った新しい命は、あらゆる苦難と逆境に耐えて、不動の喜びに満たされるのです。そして、ここにいる私たちも、キリスト・イエスの復活に与って、新しい命を生きているのです。

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