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新しい人を身に着ける

新しい人を身に着ける
大坪章美

エフェソの信徒への手紙 4章 17-24節

パウロは、キリスト者の新しい生き方について勧めています。そして、先ず語ります、「そこで、わたしは、主によって、強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。」と記しています。ここで言われている「異邦人」というのは、キリストの福音を受け入れない人々のことを指しています。今や、私たちキリスト者は、新しいイスラエルの民として歩んでいますが、かつての私たちも異邦人でありました。

「異邦人は、空しい心で歩くからである」と言っています。彼らは、「神を神として崇めない」、言い換えますと、「神でないものを神として崇める」と指摘しています。つまり、「偶像崇拝に耽っている」と非難するのです。そして、もう一つの根拠は、「彼らが、神に感謝することが出来ない」という空しさの中にある、ということです。真の神を礼拝する、ということは、神に感謝を捧げることです。然し、造られた神を拝む者は、感謝することが出来ません。造られた神を拝む者は、いつしか、自分が神の座に立ってしまうのです。

パウロは、エフェソの信徒たち、そして小アジアの各教会の信徒たちに、「あなたがたは、異邦人のように歩いてはならない」と戒めて、信仰を持つ者の生活の在り方を勧めているのです。エフェソの人達も、小アジアの教会の人たちも、大勢の異邦人たちの中に生きる、少数の者たちでありました。パウロは、このような信徒たちに、叱咤激励をしています。「あなたがたは、キリストを、このように学んだのではなかった」と、言っています。「キリストを学ぶ」というのは、「キリストについて学ぶ」ということではありません。「キリストが救い主であることを学ぶ」のです。そして、このお方が救い主であることを学んだら、自分が救われなければ、キリストを学んだことにはならないのです。

このように、「キリストを聞き、キリストにあって教えられた」のだから、とパウロは言います。「以前のような生き方をして、情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てなさい」と、言っています。救われた者は、以前のような生き方を生きることは出来ない、と言うのです。然し、以前のような生き方とは、どんな生活でしょう。今までの職業や、環境から変わる、ということではありません。私たちを罪に結び付け、死に追いやるものから抜け出ることです。パウロは、「情欲に迷わされ、滅びに向かっている、古い人を脱ぎ捨てよ」と、言っています。以前のような生き方の特徴は、「情欲に迷わされる生活」です。「情欲」と訳されている言葉は、また、「欲望」や、「貪欲」という意味でもあります。救われる以前の生き方は、情欲に限らず、貪欲、欲望、に惑わされ、堕落し、人としての生活が保てなくなってしまうのです。そこでパウロは、この情欲に惑わされる生活、古い生き方から新しい生き方に変わるために、どうすれば良いか、を示します。「古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着けなさい」と勧めています。古い人と言いますのは、新しい人と同様に、人間の生き方の根本を示します。「古い人」つまり、「救われる以前の自分」は、初めの人間、アダムのように、罪に支配されている生活をする人です。「新しい人」つまり、「キリストによって救われた自分」は、神に選ばれ、キリストを信じる人です。新しい生活に入るには、古い自分を脱ぎ捨てなければなりません。然も、古い自分を脱ぎ捨てて新しい自分を着る、という行為は、何度も出来る訳ではありません。唯一回限りです。「神に象って造られた新しい人を身に着ける」と、パウロが言っています「身に着ける」という言葉は、過去の一回限りの出来事を表す言葉だからです。

神様は、ご自分を見つけさせる用意をされます。私たちにも、人生の様々な誘惑や試練は容赦なく襲いかかってきます。しかし、それは、神の慈しみの現れであって、人間を悔い改めに導くご計画なのです。その時こそ、古い自分を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着けて、神の慈しみの内に歩むことが出来るのです。

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