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キリストにある神の愛

キリストにある神の愛
大坪章美

ローマの信徒への手紙 8章 31-39節

パウロは、「この上、一体誰が、私達を、なお脅かすことができるだろうか」と言い切っています。私達に敵対する勢力が如何に多数であろうとも、それらと渡り合って、その矛先を受け止める者、それは私達自身では無くて、全能の主にています、神ご自身に他ならないからです。この神が、私達に味方して下さるからです。一般に、人間は、一切を、神の御心と権威に委ねるならば、全ての厄災に打ち勝つことができるのです。それを恐れるからこそ、絶え間ない恐怖に脅えるのであります。これは、決して、人間の幻想ではありません。私たちそれぞれが、あの洗礼を授けられた時、一度、古い自分に死んで、新しく生まれたのですから、もはや、神様との対立や食い違いは生じないのです。

パウロは、更に神の愛を説き明かします。神様が私たちに味方して下さることの、明らかな証拠があるではないか、と言うのです。32節に、「私たち全てのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒に、すべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか」と記しています。そして、これは、父なる神が、愛する独り子を死に渡された、それも、御子を裁き、命と栄光をはぎ取って、醜い十字架の死に渡されたのは、一体何の為であったのか、と申しますと、他でもありません、ただ、「私たち全てのために」なのです。「神に予定され、召されて、キリストを信じる者となったわたしたち、全ての為」でありました。
そして、ひとたび、わたしたちの罪のために死んで下さり、3日目に神によって甦らされたキリスト・イエスは、今も、後も生きる者となられて、神の右に座し、わたしたちを一切の断罪から庇って下さるのです。

これが、今、現在の事実なのです。私たちは、今、この地上にあって、肉に生きていて、神に義とされた罪人に過ぎません。望むと望まざるとに係わらず、いろいろな汚れや、罪、疑念がからみつきます。この弱みを突いて、私達を挫折に追い込む力が働きます。人間の悪意や、律法や、サタンの働きなどが暗躍します。

然し、天の父なる神様の右に座しておられるキリスト・イエスは、このようなキリスト者を挫折させようとする力の働きを見過ごしにされることはありません。父なる神の恵みにすがり、父なる神の耳に、私達の名前を告げて執り成して下さり、あらゆる罪の宣告から守って下さっているのです。ここに、私達に対する「キリストの愛」が具体的に現れています。然も、私達に対する“キリストの愛”は、苦難を避ける為の予防薬ではありません。むしろ、苦難の直中にあって、私達に打ち勝たせて下さる力でもあるのです。パウロが用いている言葉、「輝かしい勝利を収めています」のとおり、内外、様々な苦難や試み、迫害など、すべてのことにおいて、「私達は、勝ち得て余りある」のです。

38節以下でパウロは、この、「輝かしい勝利」について、更に、自らの「確信」を表明しています。キリスト・イエスによって示された神の愛は、わたしたちが死のうが、生きようが、わたしたちを捕らえて放さない、つまり、死も、生も、わたしたちをキリストにある神の愛から引き離すことは出来ない、と言っています。「天使も支配者も」と言われている「天使」は、神の使いではなく、この世の諸々の霊のことです。「支配者」も同様に、魔物的な勢力のことです。これらの「天使も支配者」も、神の愛からわたしたちを引き離すことは出来ない、と言っています。「現在のものも、未来のものも」と言われているのは、「今と未来の歴史を限定する力」を指しますが、これらの力も、そして、「高い所に居る者も、低い所に居る者も」つまり、天上の世界、地下の世界を支配する、どんな霊的存在も、神の愛からわたしたちを引き離すことは出来ない、と宣言しているのです。長々と語り続けたパウロの確信は、短く申しますと、「キリスト・イエスにある神の愛に捕らえられたわたしたち信徒にとって、本気で恐ろしいと思うような如何なるものも、この世界、宇宙には存在しない」という確信なのです。

わたしたちは、今週も、この神の愛に守られて、日々歩むことが出来るのです。

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