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見えざるものこそ永遠

見えざるものこそ永遠
大坪章美

コリントの信徒への手紙二 4章 7-18節

7節で、パウロが語っています、「わたしたちは、このような宝を、土の器に納めています」という言葉の中の、「このような宝」とは、「わたしたちの心の中に照り輝いている神の像」を指しています。そして、人間の持つ弱さの中で働かれる、神の力の現われを、四つの神の力への信仰として、表しています。第一に「四方から苦しめられても行き詰らない」、第二に「途方に暮れても失望しない」、第三に「虐げられても見捨てられない」、第四に、「打倒されても滅ぼされない」と、告白しています。そして、14節では、未来における死人の復活について語ります。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせて下さると、私たちは知っています。」と記しています。キリスト・イエスの復活は、イエス様を信じる者の復活の保証なのです。

16節でパウロが語る、「だから」という言葉は、その前の段落を承けています。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせて下さる」、“だから”それ故、「わたしたちは落胆しません」と言っています。パウロは、50歳の後半に差し掛かる頃です。肉体的には、日々、衰えを感じることもあったでしょう。然し、パウロは、相変わらず若々しかったのです。それは、パウロが、一つの真理に到達していたからに他なりません。パウロは、確かに、いつも危険にさらされており、激しい伝道の仕事で疲れ切っていました。自分の命は、あと幾ばくも無いし、死期は近づいてきます。然しパウロは、このような状態にも、動じることはありませんでした、だからと言って、どうする訳でもありません。「“死”は、自分を砕くことは出来ず、唯、自分を神に近づけてくれるだけである」、と考えていたのです。

パウロは、この思いを、「外なる人」と「内なる人」という呼び方で解き明かします。元の言葉を直訳しますと、「『外なるわたし』は痛められても、むしろ、かえって、『内なるわたし』は日々新たにされるのです」という意味になります。「外なるわたし」というのは、滅びる体を持つ、古い世の人間を意味します。そして、「内なるわたし」とは、キリストの形をとったキリスト者の新しい霊の存在を意味しています。それは、「肉なるわたし」と、「霊なるわたし」と呼び換えても良いでしょう。「肉なるわたし」の生は年老いて死に至り、墓に終わる坂道を、徐々に必然的に下って行くことになりましょう。然し、「霊なるわたし」は、逆に神のご臨在という栄光に至る丘を登ってゆくことになるのです。私達は、年月を恐れる必要はありません。何故なら、既に申し上げましたように、年月は、私達を死のもとへ、ではなく、神へ運んでくれるものだからです。

パウロは、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならない程、重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」と記しています。パウロは、このコリントの信徒への手紙二の11:24節以下で、「ユダヤ人から四十に足りない鞭を受けたことが5度、鞭で打たれたことが3度、石を投げつけられたことが1度、難船したことが3度、一昼夜、海上に漂ったこともありました」と語っています。然し、パウロは、これらの迫害すべてを、「一時の軽い艱難」と呼んでいるのです。そして、この、「一時の軽い艱難」は、比べものにならない程重い、「永遠の栄光」のための準備に過ぎない、と言っています。

そして、「わたしたちに見える物ではなく、見えない物に目を注ぐ」と記しています。何故ならば、「見えるものは過ぎ去るが、見えないものは、永遠に存続するから」と言うのです。パウロが最後に求めるものは、「神の栄光を受けること」でした。そして、パウロが、「目に見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」というのは、正にそのためなのです。「目に見えないものは、永遠に続くから」です。神を信じることも、キリストと共に生きることも、救いを受けることも、すべて目に見えるものではありません。

私たちも、目に見えないものに目を注ぎ、天にいます主を仰ぎ見て、主の日の栄光に与りたいと願います。

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