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霊に蒔く者

霊に蒔く者
大坪章美

ガラテヤの信徒への手紙 6章 1-10節

パウロは、「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と勧告しています。そして、「自分自身が尊大になるのは、同じキリスト信徒の仲間が、何らかの過ちを犯した場面に出会った時に生じやすいのです。特に律法の道しか知らない者は、躓き倒れた仲間を出しにして、自分の優越感に浸り、相手を蔑み、断罪の言葉を浴びせて、自らの罪に苦しんでいる兄弟を見殺しにするであろう」と、言うのです。また、これに反して、「本当の神の霊によって生きているあなたがた、ガラテヤの信徒たちは、崩おれた兄弟の傍らに立ってこの兄弟が立ち直るために、手を差し延べなさい」と、勧めています。

ここに、モーセの律法と、キリストの律法との大きな違いが現れています。モーセの律法によって神に受け入れられようとする者たちは、弱い者や、罪人から遠ざかって、自分自身の身のみを清く保って、律法を守ろうとします。然し、キリストの律法、即ち“愛の掟”は、ただひたすら、兄弟の重荷を負うことによって成就されるのです。これによって、キリストの律法は、モーセの律法をも、完成させることになります。

このような、愛の掟の実践を妨げる最大の障害を、パウロは、3節で語っています。「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人が居るなら、その人は、自分自身を欺いています」と記しています。そして、パウロがここで言っている、「自分自身を、ひとかどの者だと思う人」と言うのは、ガラテヤの信徒たちのことを指しているのです。

パウロは、このように、キリスト者が終末の時、神の審判の前に立つ時は、自分自身の行為に責任を取らなければならない、ということを、更に深く、説き明かします。7節では、突如、「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。」と、叱責の言葉を口にしています。「思い違いをしてはいけない」という言葉は、他にも、「思い上がってはいけない」、「騙されてはいけない」という意味があります。ガラテヤの信徒たちは、「霊の人」と、自らを称して、“霊”を所有していることにより、終末の賜物を先取りしているものと考えて、他の人たちに対して、「善いことを行う」ことをなおざりにしていたのです。キリストの再臨の時、「神が人間の業に応じて裁かれる」ということを真剣に考えない者が、神を侮る者なのです。そしてパウロは、人間が蒔くものと、刈り入れるものについて話します。「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」と言っています。

自分の肉に蒔く者とは、「自分の肉体的要求を満足するために金銭を費やす者」のことで、具体的には、5:19節で記された肉の業、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬み、泥酔、酒宴とこの類の事」を言います。これらに蒔く者は、滅びを刈り取るのです。

他方で、霊に蒔く者とは、「この世の財貨を、キリストの福音のために用立てる者」のことで、具体的には5:22節に記された、霊の結ぶ実、「愛、喜び、平和、寛容、親切、誠実、柔和、節制」を言います。これらに蒔く者は、永遠の命を刈り取るのです。

そして、気を付けたいのは、「肉に蒔く者」は、“自分の肉”に蒔くのです。それは、「肉に蒔くかどうか」は、自分で決めることができることを、意味しています。他方で、「霊に蒔く者」は、「自分の霊」ではありません。神の霊は、自分でコントロールする事は出来ないからです。言い換えますと、「霊に蒔いて、霊の実を結ぶことは、神の恵みの賜物である」ということをパウロは言っています。「今、時のある間」というのは、終末、つまり、イエス・キリストの再臨の時までの時間です。この、「時が許されている間に」全ての人に対して、特に信仰の家族に対して、善を行なうようにパウロは、勧めています。それが、「霊に蒔く者」の、業です。そして、霊に蒔くことを、倦まずたゆまず行っていると、この時間の世が、“永遠”という状態に席を譲り渡す、かの時に、私達の刈り入れがやって来ます。

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