過去の説教

望み得ぬ時、望み信じる

望み得ぬ時、望み信じる
大坪章美

ローマの信徒への手紙 4章 17-25節

パウロは、ローマの信徒たちへの手紙の中で書き記しています、「『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』と書いてあるとおりです」と言っています。創世記17:5節に記されております、主なる神がアブラハムに現れて、言われた言葉です。そこには、「あなたはもはや、アブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。」と記されています。神様ご自身が、「わたしが、あなたがたの神となる」と言われたのです。無力さと、空しさの中で、人間を根本的に支えるのは、この言葉しかありません。

パウロは、この、創世記に記された、主なる神が、アブラハムに与えた、「あなたを、多くの国民の父とする」という約束を引用したのでした。このことは、アブラハムが、自分から求めて、そのようになったのではありません。人々から選ばれた結果でもありません。彼、アブラハムだけがこの世から召し出だされて、神の前で、「多くの国民の父」と定められ、アブラハムが、これを、単純に信じただけなのです。

注目すべきは、この時、アブラハムには子どもが居なかったことです。アブラハムには、子どもが居なかったのに、神様は、アブラハムを、「諸国の国民の父とする」と、約束されたのでした。アブラハムはその時、既に100才、妻サライも、90才であったのです。

アブラハムは、人間としては、何の望みも無い状態でありました。しかし、それ以上に、神が約束された、「あなたを多くの国民の父とする」ということを望んで、信じたのです。“信仰”は、何の望みも無い絶望であるにも係わらず、なお信じるものである、と言われますが、アブラハムの信仰は、絶望であるにもかかわらず、なお望んで、信じたのでした。彼の信仰によって、望みが叶えられたのです。

信仰は、神の約束と結合しています。神の約束と、自分の状態に、大きなギャップがあっても、神の約束を疑ったり、批判したり、迷ったりはしません。返って、ますます信仰を強くせられ、神に栄光を帰するのです。それはまさに、「神にあっては、人間に不可能なことが可能とされて、実現すること」。これを信じることが、神に栄光を帰すことなのです。

パウロは、ローマの信徒たちへ、「アブラハムの信仰に倣いなさい」と記しています。それは、人間の目から見て、「望み得ない状況の下で、なお、神の約束を望んで、信じる」ことでした。22節で、パウロは、「だから、また、それが、彼の義と認められたわけです」と記しています。然も、それは、アブラハムの働きや、何らかの功績があったからではありません。何故なら、本人の業績や、功績があるのなら、それに対しては、それに見合う報酬が支払われるだけだからです。

恵みによって義として頂くのは、何の業績もなく、何の報酬も要求しないで、自分の無力と、無価値、無資格を自覚しながら、自分自身のすべてをかけて、ひたすら神に信頼する、そのような人間に対してだけなのです。業績やら、資格やら、自分の義とするものを投げ打って、ただ、神の恵みによってのみ、生きる姿勢へと踏み切った時に、その信仰は、神から、義と認められるのです。

そして、23節以下で、パウロは記しています、「「『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。」と述べています。パウロは、「アブラハムが、信仰を義と認められることによって、今なお生きて、語っている」と、主張しているのです。これを、「信仰による、神の義の、同時性」と言います。

つまり、アブラハムもパウロも、同じ信じる神を告白し、強調しているのです。アブラハムは、「死人を生かし、無から有を作る」神を望み、信じました。パウロも私たちも、「私たちの主、イエス・キリストを死人の中から甦らせた」神を信じているのです。ですから、アブラハムが、主なる神様から義と認められたように、私たちもまた、義と認められるのです。

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