過去の説教

善い行いと施し

善い行いと施し
大坪章美

ヘブライ人への手紙 13章 7-16節

ヘブライ人への手紙の著者は、かつての指導者たちへの追憶を語り始めます。この手紙の宛先は、ローマにいるユダヤ人キリスト者の群れでした。然も、彼らは、今、自分たちがユダヤ教から改宗して、新たに信じるようになったイエス・キリストに対する信仰に、疑念を持ち始めている群れなのです。著者が、「彼らの生涯の終わりをしっかりと見て、その信仰を見倣いなさい」と言っていることを考えますと、この指導者達が、殉教者であった可能性もあります。

然し、かつての彼らの指導者達には、終りがありました。人間の地上の命には、限りがあるからです。そこで著者は、「イエス・キリストは、きのうも今日も、又、永遠に変わることの無い方です」と記しています。

著者は、「いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。恵みによって、心から強められるのは良いことです」と、記しています。人間は、どのような宗教を信じるにしても、“心の平安”や、“確固たる心”を得ることを望みます。問題は、その望みを叶える手段であります。この、ヘブライ人への手紙の著者は、この手段を、「神の恵み」にのみ、求めるのです。

この“恵み”を、私たちは、イエス・キリストの贖いの犠牲によって持っています。そして、この“恵み”に与るためには、ユダヤ教との関係は、断たなくてはならないのです。このことを説明するために、著者は、ユダヤ教の贖罪日に関連した話を始めます。

ユダヤ教の贖罪日は、年に一度、イスラエルの人々の為に、その全ての罪の贖いの儀式を行う、と定められています。レビ記16章27節には、「至聖所のための贖いの儀式を行う為に、その血を携え入れられた、贖罪の捧げ物の雄牛と雄山羊は、宿営の外に運び出し、皮、肉、及び胃の中味を焼却する」と記されています。

しかし、著者は、10節で記しています、「わたしたちには、一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません」と言っています。著者は、「ゴルゴタの丘が、言わば、キリスト教集会の祭壇であり、キリスト教の集会は、その祭壇、即ち、ゴルゴタの十字架から、祭司の権利に従って、食べるのである」と言うのです。ユダヤ教の祭壇、幕屋で旧約の祭儀に仕える者、ユダヤ教徒には、これに与る権利はない、と言っているのです。著者は、このユダヤ教の贖罪日に相当するのが、イエス・キリストの死であったと、言っています。と、申しますのは、ゴルゴタの丘は、当時の町の外に位置していたからです。ユダヤ教の贖罪日の犠牲は、町の門の外で焼かれましたので、ユダヤ教の祭司達は、それを食べることができませんでしたが、同様に、彼らは、町の内側、神殿にいるのですから、ゴルゴタの丘の、イエス・キリストの犠牲に与る事はないのです。

こうして、旧約聖書の祭儀は、救済の歴史の上で、イエス・キリストの犠牲に取って代わられるのです。ただ、キリスト者のみが、「この祭壇」つまり、ゴルゴタの丘から、食べることが出来るのです。キリスト者は、町の宿営から外に出て、ユダヤ教の祭儀と断絶しなければなりません。そして、神に犠牲を捧げる義務を果たすのです。それは、神殿のあるエルサレムの町から外へ出て、ゴルゴタの丘の上で、主イエス・キリストを通して捧げる、「賛美の犠牲」と、「善い行いと施しの犠牲」に変わったのです。

こうして、著者が問い続けた、犠牲というものの最後の形が整ったのです。それは、先ず第一に、「賛美の犠牲」、そして、これと並んで第二のものとして、「善い行いと施しの犠牲」を勧めています。「善い行いと施し」は、実際的な愛の行い、です。著者は、「このような犠牲こそ、神はお喜びになるのです」と、宣言しています。モーセが伝えた、「あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ捧げ物を携えなさい」という掟が、キリスト・イエスが世に来られ、人間の罪を贖うために、犠牲となられた今、私たちが聖日毎に捧げる「賛美」そして、「善い行いと施し」という犠牲に変わっているのです。今週も、賛美と、愛の業という犠牲を捧げることから始められる幸いを感謝いたします。

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