過去の説教

悔い改めに導く神

悔い改めに導く神
大坪 章美

ローマの信徒への手紙 2章 1-11節

パウロは、「だから、すべて、人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」と、言っています。ここで、パウロが、「すべて、人を裁く者よ、弁解の余地はない。」と苦言を呈しています相手は、ユダヤ人たち、それも、ユダヤ人キリスト者たちでした。
ユダヤ人たちは、常に異邦人を裁いて、罪人と呼んで、優越感を味わっていました。ユダヤ人たちは、エルサレムからガリラヤへ下るとき、余程のことが無い限り、サマリアを通って真っ直ぐ北上する最短距離を選ばず、一旦、ヨルダン川の東側へ出て、そこからガリラヤ湖の手前まで北上して、再びヨルダン川を西へ渡って、ガリラヤへ入るルートを選びました。これらはすべて、サマリア人が、もともと同じイスラエルの民であったにも係わらず、アッシリアの占領政策によって、遠くユーフラテスの東へ移住させられ、サマリアには、アッシリア周辺の国々の人々が移住して来たことに始まりました。その結果、サマリアに残ったイスラエルの民は異邦人との混血が進み、ユダヤ人としての血統を保つことができず、ユダヤ人たちはこれをもはや、同胞の民とは見做さなくなったのでした。つまり、異邦人として蔑んだのです。

然し、人は、人に対して、審判者であり得るでしょうか。ユダヤ人もサマリア人も、異邦人もローマの信徒も、皆同じ人であって審判者にはなり得ないのです。

パウロは、このような、人を裁きつつ自分も同じことをしている者に対して、3節で、「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」と問い詰めています。
4節では、「それとも、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くとも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐を、軽んじるのですか」と追及しています。パウロは、これまで、神はすべての人間、特にイスラエルの人々に対しては豊かであった、と言っています。やさしく、温かく、慈悲深い、慈愛の神であった。そして罰するに遅く、忍耐の神であり、気長く、堪忍強く、寛容の神であった。しかし、イスラエルの民にとっては、神の心が大きすぎて、まるで謎のように見えました。そこで、愚かな人間は、神を侮るようになるのです。ところが、慈愛の神には、はっきりと一つの意志が貫かれています。すなわち、「あなたを、悔い改めに導く」ということです。“悔い改め”と申しますのは、“心の入れ替え”、人間の生涯も、人類とユダヤの歴史も、その全ての瞬間が、「神のご自愛と、人間の悔い改め」の時であったのです。人生と歴史の真相は、“神の慈愛と罪ある人間の出会い”即ち、“悔い改め”にあったのです。パウロは、「神は、おのおのの行いに従って、お救いになります」と記しています。忍耐強く善を行ない、栄光と誉と不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになる、と言っています。永遠の命そのものが、栄光と誉と、不滅を含む神の命であるからです。

8節では、その反対に、自らの自我と反抗心に捉われて、神の真理に従う代わりに、罪の言いなりになる人々には、彼らが望んでもいなかった処遇が待ち受けていることになります。それは、平安と栄光とは正反対の、“苦しみ”に外なりません。

パウロは、11節で、「神は、人を分け隔てなさいません」と、言っています。神様には、偏見は無いと言っています。神様には、ただひとつの真理の基準しかありません。その人が誰であろうと、全く公平に、「何を行ったか」ということのみに、着目されるのです。

そして、今日示された聖書個所で、私たちに対する、救いの言葉がありました。パウロが、ユダヤ人たちに対して発した言葉です。4節です、「神の憐れみが、あなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んじるのですか」と述べています。私たちは、人間である以上、罪を犯すことは避けられません。しかし、それで終わりではないのです。神様は、ご慈愛と忍耐とをもって、私たち罪人を、悔い改めに導いて下さるのです。ですから、今日も、今週も、私達は平安な心で歩むことが出来るのです。

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