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新しい命に生きる

新しい命に生きる
大坪章美

ローマの信徒への手紙6章1-11節

 コリントにおいて、未だ、会ったことも無いローマの信徒たちを思い浮かべながら、パウロは、彼らに手紙を書き記していました。「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中に留まるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることが出来るでしょう」と、パウロは記しています。「恵みが増すように、罪の中に留まるべきだろうか」という問いの前提には、「罪の中に留まっていたら、恵みが増し加わる」という変な考えがあるようです。
 この、誤った考えは、直前のパウロの言葉に対する反対論者の考えなのです。アダムの不従順の結果、人間は罪人とされましたが、そこに律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるため、であったのです。しかし、この、罪が増し加わった人間世界にイエス・キリストが遣わされ、その死に至るまでの従順な死を通して、人間の増し加わる罪を贖われたのでした。このことを、パウロは、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました」と表現したのでした。
 このような、パウロの文脈に立てば、パウロが自問した、反対論者の考え、「恵みが増すようにと、罪の中に留まるべきだろうか」という問いが、如何に荒唐無稽であるか、或いは悪意をもった誤解であるか、は一目瞭然であろうと思うのです。パウロは、2節で、「決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうしてなおも、罪の中に生きることが出来るでしょう」と、逆にパウロに対する反対論者、恐らくは、キリスト教的ユダヤ主義者に対して、反論をしています。
 パウロは、「キリスト者が決定的に、罪に対して一度死んで、罪とは絶縁したのだ」という事実の根拠を述べ始めます。それは、ローマの信徒たちがかつて経験した、信仰の始まり、彼らが受けた洗礼について、改めて思い出させようとしています。3節です、「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが、皆、また、その死に与るために洗礼を受けたことを。」と言っています。思い出してみましょう。私たちが洗礼を授けられた時のことを。ローマの信徒たちも、同じでした。イエス・キリストを信じ、信仰告白を行って、イエス・キリストに結ばれるために私たちは洗礼を受けました。然し、このことは、同時に、洗礼を授けられた時、その時までの罪の中にあった私たちは、イエス・キリストの罪の贖いの死に与ったのです。そして、その時、それまでの罪の中にあった私たちは、イエス・キリストと共に死んで、同時に、復活のイエス・キリストに結ばれて、新しい命を生きるようになったのです。イエス・キリストの十字架上の死が、私たち全ての人間の罪を贖うものであったからなのです。パウロは「私達は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与るものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって、死者の中から復活させられたように、私達も、新しい命に生きるためなのです」と記しています。
 パウロが8節で言っております、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きる事にもなると、信じます」という言葉のとおりなのです。更に、パウロは、言っています、「死者の中から復活させられたキリストは、もはや、死ぬことはない」のです。人間の死は、アダムからモーセまで支配して、律法が定められてからは罪の代償として、猛威を振るってきました。然し、イエス・キリストは、死者の中から、ただ一度、決定的に甦らせられたのです。この甦りは、再び死ぬような、この世の蘇生ではありませんでした。決して死ぬことのない復活であったのです。死は、もはや、キリストを支配することはありません。私達は、あの洗礼を授けられた日を境に、キリストと共に、一度、死の門をくぐり、再びキリストと共に新しい命を生きる者とされたのです。今の私達は、キリストとの命の交わりの中に入れられ、キリストのものとされています。キリストが、もはや死ぬことが無いように、私たちも、永遠の命を生きています。もはや、罪も、死も、私たちを脅かすことは、出来ないのです。

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