過去の説教

主と共に生きる

主と共に生きる
麻生教会牧師 久保哲哉

主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです

テサロニケの信徒への手紙一 5章 7-11節

人生は山あり谷あり色々なことが起こります。特に今日読まれましたコヘレトの言葉に目を向けますと

「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい(コヘレト1:2)」と3度「空しい」という言葉が繰り返されています。コヘレトは襲い来る人生の荒波に疲れ果ててしまったのでしょうか。しかも実はこの箇所は原文を見てみると、日本語には訳出されていませんが、この短い文章の中で5度、「空しい」という言葉がくり返されていました。古代イスラエルの知恵者コヘレトがどれほど人生に空しさ・困難さを感じていたかがわかります。

それでコヘレトに出るこの「空しい」という言葉はもともとの言葉で「へベル」といいます。ここで注目したいのは旧約聖書にはこの「へベル」という名を持つ者がいるということです。最初の人、アダムとエバから出た兄弟の弟のアペルが「空しい(へベル)」という名を持つ男でした。

名は体を現すというのは本当のことで、アペルは人類初の殺人の犠牲者となりました。創世記によれば兄カインは主なる神への捧げ物が神に受け入れられなかったという神の理不尽に耐えることができずに、神を離れ、罪に陥り弟アベルの命を奪いました。なんとも「空しい」後味の悪い事件です。神の御心はどこにあるのか、中々見えにくい出来事です。しかし、こうした出来事は現代でもいくらでも起こり続けていることを私たちは知っています。殺人などとは無縁の生活を送っている私たちです。けれども自分たちの生活を振り返ったときに、悔い改めの必要を感じない者はいないでしょう。本当に神を愛し、隣人を愛する生活を送っているか。主の前に悪を働いていないだろうか。心の内に欠片でも悔い改めの必要性を感じたならば、私たちもカインと同じです。

私たちがこの空しく後味の悪い状況から脱出し、「信仰と愛を胸当てとしてつけ、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んで(1テサ5:8)」生きることが主なる神の御心です。

では、ここに集う私たち1人1人はどうなのでしょう。それぞれ、色々な悩みや課題を抱える中で、迫り来る現実にへこたれてはいないでしょうか。人生は理不尽なものだと諦めてはいないでしょうか。

ところで、皆さんは「すべては空しい」と言い切ったあのコヘレトが、人生についてどのような結論を持つたかをご存じでしょうか。彼はすべては空しいから「無気力になるのはしょうがない」とか「死んだ方がましだ」と言いたかったわけではありません。

コヘレトは言いました。「ひとりよりもふたりが良い、共に労苦すれば、その報いは良い(コヘレト4:9)」、「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい(コヘレト9:10)」。

つまり、人生は空しいから何をしたところで無駄だというのではありません。むしろ、だからこそ主に従い、力を与えられて人生をとことんまで積極的に生きよ!との神の命令がここにあります。

その際、ひとりよりもふたりが良いのです。10人よりも20人が良いのです。私たちには共に労苦し、共に励まし合う信仰の仲間が、そして何よりも「神は我々と共におられる/インマヌエル(マタイ1:23)」との名を持つお方が2000年前すでにわたしたちの元へ来て下さいました。名は体を現すというのは本当のことです。主がこの地上に来られたのは十字架の贖いにより私たちの罪を赦し、聖霊の注ぎのうちに「目覚めていても、眠っていても、『主と共に生きる』ようになるため(1テサ5:10)」でした。この希望を与えて下さった神の愛に、信仰をもって応えていきましょう。私たちの人生は空しいものではありません。神の愛と祝福に満ちています。積極的に人生を生き抜き、神と人の前でまっすぐに、前向きに、元気に「主と共に生きる」生き方がここにあります。

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