過去の説教

偽善者から信仰者へ

偽善者から信仰者へ
大坪章美

ルカによる福音書 12章 1-7節

この頃、イエス様は、ファリサイ派の人々や、律法学者たちと、激しい論争を繰り広げておられました。11章50節以下では、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる、つまり、「アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ」と言われて、ユダヤ人を非難されたのです。

こうして、今日お読み頂いた場面が始まります。イエス様の周りには、数えきれないほどの群衆が押し寄せてきて、互いに足を踏みあう程でありました。ここで、まず弟子たちに、話始められました、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と言われました。何故、宗教において“偽善”が起きて来るかと申しますと、人間の心の内を見られるのは神様ですが、外面を見るのは他人です。人間は、他人の目や口が気になるところから、内面は整っていないのに、整っているかのように人から見て貰いたい、という誘惑に負けてしまう事から、偽善が起きて来ます。

“信仰”とは、心の中を見ておられる神の御前に生きることであるにも係わらず、神の目よりも人の目や口を気にしてしまう“不信仰”に陥る弱さを、誰しも持っています。水平の関係ではなく、垂直の関係こそ大切である、と言われますのは、他人の目や思惑にのみこだわって、本当に垂直に神を見上げて、心を神に向けて生きることを忘れた人間に対する警告なのです。

そこで、イエス様は、この、“偽善”の限界を、宣告されました。「覆われているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはない」と言うイエス様のお言葉は、端的に申しますと、「ファリサイ派の人々の秘密は、必ず暴露される」という鋭いご指摘でした。具体的には、ファリサイ派のユダヤ人の、実際は邪悪な心を、見せかけの美辞麗句でどんなに装っても、無駄なことなのだ、と仰るのです。ファリサイ派の人々や、律法学者たちが、イエス様に激しい敵意を抱いて、イエス様が語られる福音を必死になって妨害しようとしても、民衆は騙されなかったことを、著者ルカは記しているのです。

こうして、イエス様は、弟子たちがご自分の僕ではなく、友人であるからこその、警告をお与えになるのです。そして、ここで語られる警告は、今まで続いていた「ファリサイ派の人々のパン種」即ち、“偽善”に関係しているのです。私たち自身が、偽善に陥りやすいのは何故かと申しますと、「人を恐れるから」です。人の目や口を気にして、「人がどう思うか」に左右されて、“偽善”の信仰に陥ってしまいがちなのです。

ここに、偽善者と、真の信仰者との違いがあります。偽善者は、神様のことを忘れて、人の目や口、外見を恐れ、気にして装います。真の信仰者は、自らの心を神に向けて、神の前に畏れをもって生活します。

真に神を恐れることは、信頼を意味します。イエス様は、ここで、譬え話をされます、「5羽の雀が2アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことは無い。それどころか、あなたがたの髪の毛までも、一本残らず数えられている」と言われました。あまりにも安くて、5羽に束ねないとそこそこの値段がつかない程軽んじられている一羽の雀でさえも、神様はお忘れになってはいない。私たち人間のことならなおさらのことです。私たちひとりひとりの頭の髪の毛の数さえも、神様は数えて下さっている、と言われるのです。このように、主なる神様は、人間を大切にされ、いつも守って下さっています。その人の歩む道から行く末まで、御心に留めておられるのです。弟子たちや、私たちは、このように神様のご計画の中にあって、守られていることを考えた場合、自分で思い煩ったり、意気消沈したりする必要は全くないのです。

そして、この事が分かれば、人の目や口等、何故恐れる必要があるでしょうか。神への信頼、真の信仰が、私たちを偽善から解放してくれるのです。私たちは、常に私たちを御手の中に置いて下さる神を信じ、人の目を恐れることなく、歩むことが出来るのです。

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