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癒やしと救い

癒やしと救い
大坪章美

ルカによる福音書 8章 40-48節

「そこへ、ヤイロという人が来た」と、ルカは語り始めます。このヤイロという人は、ユダヤ教の会堂長であったというのですが、彼はイエス様の足元にひれ伏して、自分の家に来て下さるように願ったと記されています。人の目には何の不足も無いように見えるこのヤイロにも、胸の潰れるような不安と恐れがありました。彼の一人娘が死にかけていたのです。彼は自分の娘を助けたい一心で、自尊心も、誇りも投げ捨てて、イエス様の足元にひれ伏して、救いを求めました。イエス様は、このヤイロの願いを聞き入れられ、彼の家に赴くことになります。「イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せてきた」とルカは記しています。

そして、この混雑の中を、人波に揉まれながらジリジリとイエス様の背後に近づこうとする一人の女性がいました。ルカは、この女性のことを、「12年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、誰からも治して貰えない女がいた」と記しています。この女性はもう、医者にかかることもできません。と、言うよりは、この女性は医者にかかったら治るという希望からは、とうに見放されていたに違いないのです。

このように、思いつめた女性が、万策尽きて途方に暮れていた時、イエス様のことを伝え聞いたのです。女性は、「その衣に触れるだけでも、癒して頂ける」と信じました。しかし、そう信じたものの、「イエス様の衣に触れる」ということ自体、至難の業でした。長血を患っている女性が、他人に触れるということは、触れた相手を汚すこととされていましたから、正面からイエス様にお会いすることは出来なかったのです。

ですから、イエス様が会堂長のヤイロたちと共に、群衆の人波に揉まれながら、ヤイロの家へ向かって歩き出している時が、彼女にとっての、千載一遇のチャンスだったのです。女性は群衆をかき分けて、少しずつイエス様との距離を縮めてゆきました。そして、人混みの最前列まで来ますと、目の前にイエス様の後ろ姿があったのです。女性は、人に押し出されるように、目の前に見える衣の房に触れました。そうしますと、直ちに出血が止まったというのです。

イエス様も、「誰かがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と仰って、その人物を探し出そうと、周りを見回しておられたのですが、それには訳がありました。長血が癒された女性は、苦しんでいた病いこそ癒されたものの、それは病を発症した12年前の自分の体に戻ったに過ぎませんでした。どんなに健康な人でも、寿命が尽きればいずれ、地上の死を迎えます。この女性の命の時計は、そこで止まってしまうのです。本当の救いは、そのようなものではありません。救われた者の命の時計は、地上での死がやってきてもなお動き続けます。救われた者は永遠の命を与えられるからです。この癒された女性は未だ本当の救いには与っていませんでした。そして、緊張に耐えられなくなった女性は、一歩前に出たのでした。

イエス様の前に名乗り出る事は、自分の全てを失うことになるかも知れませんでした。ひょっとしたら、たった今イエス様の衣の房に触れて癒された病気も、癒しが取り消されるかもしれないとまで思いつめていました。律法に違反した罪で捕らえられ、厳しい処分を受けるかも知れません。然し、本当に彼女の心を震えおののかせたのは、イエス様の圧倒的な恵みの力、恵みの大きさに気が付いたからなのです。彼女はイエス様の前にひれ伏して、衣の房に触れた理由と、たちまち癒された次第とを、皆の前で話しました。彼女は、真実を、ありのままに隠すことなく、群衆の前で話したのです。そこには、自分を、完全にイエス様にお委ねする彼女の信仰がありました。イエス様は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。「平安のうちに行きなさい」というご命令は、心配がなくなるということではありません。「救われた」という確信を持つ事によって、平安でいられるのです。私達も、不完全な信仰しか持ちえませんが、その中からでも、真実を拾い上げて下さり、救いの道を歩ませて下さるイエス様を賛美したいのです。

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