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希望の保証

希望の保証
大坪章美

ヘブライ人への手紙 10章32節-11章3節

 ヘブライ人への手紙の著者は、これまでの語り方とは一変して、激励と希望の言葉を語り始めます。32節では、「光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころを思い出してください」と読者に呼びかけています。彼らは、「大きな戦いに、よく耐えた」と、賞讃されています。「嘲られ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました」と記されています。
次に、35節になりますと、著者の語り口が改まったような感じがいたします。「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります」と、強い命令の口調から話し始めています。「あなたがたは、苦しい戦いを耐えて、乗り切ったではありませんか」と言っているのです。
 著者が、このように語りかけているところを見ますと、この手紙の宛先、恐らくはローマにいるユダヤ人キリスト者の群れは、イエス様に対する信仰を投げ捨ててしまうかどうか、の危機に直面していたようです。 著者は、ここで、「自分の確信を捨ててはいけません」と言っていますが、この、「確信」とは、「恵みの座に近づくことが出来る」という確信、また、信仰告白に対する確信のことです。これらの確信を捨てて、過去を棄て去るのであれば、同時に未来をも棄て去ることになるからなのです。著者は、改めて、「信仰によって命を確保する」、その“信仰”について語ります。11:1節では、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と、記しています。この1節は、「信仰とは、キリスト者の希望が実現することの保証であり、今でこそ見えませんが、やがて明らかになる神のご計画の出来事を確認すること」であるという意味になります。しかし、著者が言っております、「神のご計画の出来事を、確認する」ために必要な証拠が、一体何処にあると言うのでしょうか。著者は、2節で答えてくれています。「昔の人たちは、この信仰の故に、神に認められました」と言っています。「神に認められました」という言葉の直訳は、「良い証言を与えられました」という意味になります。そして、その良い証言が、4節以下に列挙されていることなのです。
このヘブル人への手紙が書かれた目的を思い返してみますと、著者は、ローマに居ると思われるユダヤ人キリスト者の群れが、信仰の危機に直面していることを知って、力づけ、励ますために、この手紙を書いたのでした。11:4節以下で、拷問と迫害、血と死の証拠をあげつらっています。私たちの目から見ますと、信仰の危機にある人々に対して、かえって、逆効果ではないかと、心配になるほどです。
然し、著者は、彼らの死に様こそが、希望の証拠であると言っています。39節です、「ところで、この人たちはすべて、その信仰の故に神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした」と記しています。彼らは、神に賞讃される偉業を達成しながらも、イエス・キリスト以前の時代に生きていたために、約束のものを完全に受け継ぐことは出来なかったのです。
著者の結論は、11:40節にあります、「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださった」という言葉に表されています。この、“更にまさったもの”が、これまでに挙げられてきた無数の証拠の頂点に立つのです。そして、その、決定的な証拠が、“十字架における、イエス様の死”なのです。
そして、ここに、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」という、11:1節の言葉の意味が示されています。私たちは、今、イエス・キリストの再臨、終末の時を目指して歩んでいます。すべてが新しくされ、復活の体を頂き、永遠の命に生きる時に、すべてが目に見えるようになり、明らかになるのです。私たちは、今、私たち自身、何の功績もなく、ただ、神様の恩寵によって、イエス・キリストの福音に与ることができ、栄冠を得るために、競技場のコースを走ることが許されているのです。この恵みに深く感謝して、やがて来る主の再臨を待ち望みつつ、与えられたコースを走り抜きたいのです。

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