過去の説教

ここにいる、ここにいる

ここにいる、ここにいる
大坪章美

マルコによる福音書 15章 33-39節

その日、金曜日の朝、イエス様が十字架につけられたのは、午前9時でありました。昼の12時になった時、全地は暗くなり、それが午後3時まで続いたと、マルコは記しています。今まで、沈黙を守られていた神様の怒りに満ちたご臨在が、あたりを覆っている暗闇の中に現れています。イエス様は、もう6時間という長い間、体の痛み、死の苦しみと戦っておられました。その時、イエス様が大声で叫ばれました、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」というお言葉です。暗闇として臨在し、暗闇としてしか臨在されない神に対する呼びかけと言えるでありましょう。イエス様は人間からも、そして父なる神様からも見捨てられるという孤独の極みを味わわれたのです。その苦しみの大きさは、私達、人間の罪の大きさを表すものでありました。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた、このお言葉の秘義を理解するためには、イエス様が一身に負って苦しんでおられる罪の本質を考えなければなりません。イエス様は、人々に、「悔い改め」を宣べ伝えられました。そのために罪人の友となり、罪人と共に食事を摂られました。そして今、十字架の上で、罪人の罪をご自分の身に負われたのです。地上のすべての人間が、十字架の上で叫ばなければならない立場なのです。それを、イエス様は、ご自分の身に負われました。このイエス様の叫びの故に、信じる者は、永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。イエス様は、「大声を上げて、息を引き取られた」と記されています。

そして、あり得ないことが起きたのです。39節に記されました、イエス様の方を向いて、近くに立っていた百人隊長の言葉です。イエス様の息絶えるのを見て、「本当にこの人は、神の子だった」と言ったというのです。イエス様が十字架に上げられてから、大声を出して息を引き取られた一部始終を、正面の角度から見ていた死刑執行人の分隊長は、異邦人でありローマの軍人であったにもかかわらず、甚だしく感動して、「真にこのお方は、神の子だった」と告白したのです。
百人隊長の告白は、私たちの目には、歴史上の偶然であるように思えます。しかし、本当は、ここにも私たちは神様の御心が働いていることに気付くのです。

イザヤ書65章は第三イザヤの預言の時期で、紀元前538年のバビロン捕囚からの解放の後のユダヤ教団の問題が取り上げられています。裕福な家の所有であった土地も、家屋も、畑も、異邦の民に占拠されてしまっていたのです。それどころか、異邦人の宗教が入り込み、唯一の神ヤハウェとの宗教混交、交じり合った状態が進んでいました。帰還した人々の苦難の中で、主なる神は見出されず、沈黙し、答えて下さらないという、嘆きの声が、再三再四、響き始めたのです。

このような、嘆き苦しみのうちにあるイスラエルの民に、主なる神様は、驚くべき言葉を返されます。65:1節です、「わたしに尋ねようとしない者にも、わたしは尋ね出される者となり、わたしを求めようとしない者にも、見出される者となった」と告げられたのです。どのような方法で、ご自分を現されたかと申しますと、劇的な勝利者の姿ではありません。ただ、「わたしの名を呼ばない民にも、わたしは、ここにいる、ここにいる、と言った」と、言われたのです。それは、細い声、ささやくような御声です。「ここにいる、ここにいる」と訳されている言葉の元の意味は、「わたしを見なさい、わたしを見なさい」という意味なのです。

こうして、第三イザヤは、神の救いの御手が、神の民であるイスラエルの民よりも前に、異邦人に伸ばされるという預言を語ったのです。そして、その最初の信仰告白が、イエス様の死刑執行人、ローマ軍の百人隊長が言った、「本当に、この人は、神の子だった」という言葉でした。この異邦の軍人は、ただ、イエス様が十字架に上げられてから、息を引き取られるまでの6時間、イエス様を真正面から見続けていただけなのです。そしてイザヤの預言が、その通りになったのです。イエス様を、真正面から見る人は、「イエス様こそ神の子」と告白せざるを得ないのです。

アーカイブ