全能者が言われる
大坪章美
ヨハネの黙示録 1章 1-8節
黙示録の1:1節には、「イエス・キリストの黙示」と記され、続いて、「すぐにも、起こるはずのことを、神がその僕たちに示すために、キリストにお与えになったもの」と述べられています。ここで語られた“神の僕たち”が誰を意味するかと申しますと、聖霊を受けて、預言者の約束の成就を経験した、キリスト教集会の全体であると、考えられます。著者ヨハネには、他の人々には閉ざされている天上の世界を垣間見ることを、許されるのです。そしてヨハネは、天使が自分に顕したことを、自分のためだけにしまっておくことなく、キリストの諸教会に証ししたのでした。宛先は、「アジア州にある七つの教会」でした。
次に続く、平安の祈りは、当時一般的に行われていた、平安を祈るあいさつの形式に従って書かれています。が、しかし、黙示録の中には、新しい内容が盛り込まれているのです。黙示録に記された“平和”とは、“終わりの時の救い”のことを指しているからです。これまでの挨拶文が、「恵みと平和は、わたしたちの父なる神と、主イエス・キリストから来る」という言葉であったのに対して、ヨハネは、言葉を変えています。まず、「わたしたちの父なる神」の代わりに、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」から、恵みと平和があるように、と祈るのです。そして、イエス・キリストが、三つの特性で表されています。“証人”、“誠実な方”と言いますのは、真理を伝えて下さった証人であり、また、死に至るまで証しを貫かれた誠実さを意味しています。“死者の中から最初に復活した方”と言いますのは、死者たちのうちで、最初に生まれた方であることを意味しています。また、“地上の王たちの支配者”とは、主イエスが最後に高く掲げられ、地上のすべての勢力に対して究極的に勝利され、神の右の座に着かれたことを意味します。このように、ヨハネが、地上のすべての勢力に対して勝利を得られたと語っていますのは、まさに今、艱難に遭っている小アジアの諸教会に伝えるためなのです。キリストが、地上の王の唯一の支配者であるが故に、諸教会は終わりの日の恐怖の中にあっても、大きな慰めの内にあり、讃美を続けることができるのです。
7節は、終末の出来事の告知です、「見よ、その方が雲に乗って来られる」という言葉は、ダニエル書7:13の「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て」との預言に由来します。これはイエス・キリストの再臨の預言的告知です。
そして、エレミヤ書32:27節で、エレミヤは預言しています。「見よ、わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力の及ばないことがひとつでもあるだろうか」と記されています。この時は、ユダの王、ゼデキヤの治世第10年のことでした。バビロニアに降伏するよう進言するエレミヤは、王にうとまれて捕らえられ、獄中にいました。しかも、もうその時は、都エルサレムはバビロニア軍に包囲され、城壁の外には、城攻めの土塁が築かれていたのです。ところが、エレミヤに臨んだ主の言葉は、驚くべきものでした。37節、「かつて、わたしが大いに怒り、憤り、激怒して追い払った国々から、イスラエルの民を集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる」と、預言されたのです。そして事実、およそ70年後、バビロンや周辺諸国に追い払われていたユダヤ人たちが解放されて、エルサレムへと、喜びの帰還を果たしたことは、歴史が証明しているとおりです。エレミヤに臨んだ主なる神の預言は、人間の考えでは想像もできないことでしたが、歴史的事実となって現れ、神の言葉の真実なることが証明されました。今、私達は、ヨハネが与えられた神の言葉と、主イエスの証を、文字で読むことができます。そこには、「見よ、その方が、雲に乗って来られる。全ての人の目が彼を仰ぎ見る」と記されています。主イエスの再臨の預言です。終末と呼ばれている日です。罪人は審きの座に立たされ、キリストを信じる者は、新しい命を与えられる日です。その時、人々は、「想像も出来ないことが起こった」と、神の言葉の真実なることを再確認することでありましょう。