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主は唯一の主

主は唯一の主
大坪章美

マルコによる福音書 12章 28-34節

マルコが28節で記しております、「一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、」という言葉の中の、「立派なお答え」が、サドカイ派の人々に対する答えでありましたことは、申し上げるまでもありません。この、満を持して登場した律法学者が、イエス様に尋ねた言葉が、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と言う質問でした。律法学者のこの質問の背景には、当時のユダヤ教内部での動きがあったのです。当時ユダヤ人の間で、戒めとされていたものは、六百を超えるほどの数でした。そして、悲惨なことに、そのどれもが、一様に重んじられていました。確かに、戒めは、神のご命令でありますから、どれが重くて、どれが軽いという人間の判断は出来ないのでしょう。特にファリサイ派の人々は、それを文字通りに実践しようとしていたものですから、日常生活は、それこそがんじがらめにされていたのです。

この、律法学者の問いに対して、イエス様がお答えになりました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽し、精神を尽し、思いを尽し、力を尽して、あなたの神である主を愛しなさい』」と、言われたのです。そして続いて答えられました、「第二の掟は、これである。『隣人を、自分のように愛しなさい』。この2つに勝る掟はほかにない」と言われたのです。

私たちは、マルコが記していますイエス様の、律法学者に対する答えが、第一の掟、「神を愛せよ」という勧めに入る前に、「神は唯一の主である」という言葉から始められたことに、注目しなければなりません。ここには、ヨハネの手紙第一の、4:10節の考え方が現わされているのです。そこには、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と記されています。

これで分かりますように、最初に“神の愛ありき”なのです。信じられないことではありますが、神様がまず最初にわたしたちを愛してくださったのです。最初に、御子イエス・キリストを、人間の罪を贖ういけにえとして、地上に送られた、この神の愛が、愛の連鎖の始まりなのです。この、神の愛があってこそ、イエス様が律法学者にお答えになった、「心を尽し、精神を尽して、神を愛する」愛を生み出し、そして、「隣人を、自分のように愛する」愛を生み出す源になっているのです。このようなイエス様のお答えに対して、律法学者は、「先生、仰るとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』と仰ったのは、本当です」と、イエス様のお答えに心から同意して、イエス様のお答えを、自分の言葉で反復したのでした。そして、「『心を尽し、知恵を尽し、力を尽して神を愛し、また、隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物や、いけにえよりも優れています」と答えました。神への愛と、隣人への愛、この二つの愛が、どんな神殿祭儀よりも優れている、と告白したのでした。
しかし、既に、旧約聖書の中には、その原型ともいえる預言者の言葉も、見出されるのです。イスラエルがソロモン王の死後、北王国イスラエルと、南王国ユダに分かれていた頃、北王国イスラエルで活動した預言者にホセアがおりました。このホセア書の6:6節に、神の預言が語られています。「わたしが喜ぶのは愛であって、いけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」と記されています。ホセアが預言した言葉は、神の御前に焼き尽くす献げ物で表す愛よりも、神の言葉に聞き従う愛の方が勝っていると言うのです。そしてこの愛は、何よりも初めに、神が人間を愛して下さる愛によるのです。この神の愛によって、今度は人が神を愛し、隣人を愛するのです。
先ずは、唯一の神様による、人間への愛が最初にあるのです。この、神様の愛によって、私達は第一の掟、「神を愛する」ことが出来、また、第二の掟、「隣人を自分のように愛する」ことが出来るのです。今日からの一週間も、神様の愛の内にあることを感謝しつつ、隣人を愛することが出来ますよう願うものであります。

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