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光の中を歩む

光の中を歩む
大坪章美

ヨハネの手紙一 1章 5-10節

詩編42篇は、「僕の詩」と呼ばれている詩のひとつです。まず問題となるのは、1節から4節までに歌われている“僕”という言葉が、一体誰のことなのかということです。1節で、「わたしの僕」つまり、「神の僕」と呼ばれていますこと、また、「わたしの心に適う、わたしの選んだ者」と結び付いている形は、ダビデ王と、その子孫に典型的なものなのです。このことから、第二イザヤが1節から4節で歌った“わたしの僕”とは、来るべきメシアとして描かれている可能性が大なのです。3節の、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」、あるいは、4節の、「暗くなることも、傷つき果てることもない」という言葉は、バビロンでの捕囚の現実の厳しさを示すと同時に、それを克服してゆく僕の働きが描かれているのです。イスラエルの民は、嘆きと共に神様に訴えました、「神様、何故あなたは、わたしたちを見捨てられたのですか」と問いかけたのです。神様は、即座に答えられました、16節です、「目の見えない人を導いて知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え、曲がった道を真直ぐにする」と言われました。主なる神様は、バビロン捕囚のイスラエルの民に目を留め、救い出そうと預言されているのです。主なる神は、捕囚の民を導いて、行く手にある闇を光に変え、故郷ユダへ、エルサレムへと通じる道を導いて、真直ぐで、平らな道を歩ませると、約束されたのでした。そして、この約束は、「わたしはこれらのことを成就させ、見捨てることはない」という言葉によって確実なものになるのです。

時代は降って、新約の時代になります。紀元百年の頃、ヨハネの手紙一が書かれました。ヨハネは5節で記しています、「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなた方に伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」と言っています。6節で、ヨハネは、言っています、異端の教師たちが主張するように、もし、「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」と反論しています。誰であれ、真実に神との交わりを持つ者は、光の中を歩む以外の歩みは出来ないのです。神は光であるからです。またヨハネは、8節で、もし「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたち内にありません」と記しています。ヨハネは、「キリスト者が、神との交わりを持ち、また、光の中を歩んでいても、なお罪に陥ることはある。然し、彼らが自分の罪を告白することによって、神との損なわれた交わりを回復し得るのだ」と説いています。
そして、最後に、ヨハネは三つ目の異端の教師たちの主張に反論します、10節です、もし、「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」と断定しています。神が、御言葉をもって人間の罪を宣言され、罪の赦しによって救いを与えられるということを、異端の教師たちは知らないのです。

今日最初にお読みしました、第二イザヤは、16節で、神の言葉を預言しました、「目の見えない人を導いて、知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩ませる。行く手の闇を光に変え、曲がった道を真直ぐにする」と、宣告され、その預言どおり、バビロン捕囚の民の、希望のない絶望の闇から光の道へ、バビロンからエルサレムへの解放の道へ、と救いを約束して下さいました。新約の時代になってからのヨハネも、第一の手紙1:5節で記しました、「神は光であり、神には全く闇がない」という言葉です。バビロンにあって捕囚の生活を余儀なくされたユダヤ人達が強いられた絶望の闇。その闇から光の道へ導き出されたと同じように、私達、イエス様との交わりの中に入れられているキリスト者の行く手には、闇はないのです。イエス様との交わりによって、光の中にあるからです。キリスト者でも罪を犯すことはあります。然し、悔い改めによって、イエス様との交わりは、回復されるのです。私達は今週も、光の中を歩むものとされているのです。

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