過去の説教

最高の幸福

最高の幸福
大坪章美

使徒言行録 2章 37-47節

コヘレトは、3:12節以下で、「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで、一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と。」と述べています。コヘレトが、このように人間としての結論を出したのは、「自分の真面目な労働によって、“食い、飲み”して、堅実な生活を営むことこそ、神の賜物である」と悟ったと言うのです。

コヘレトは、さらに進んで、神と世界についての考え方を述べ続けます。14節では、「わたしは知った。すべて、神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と」と語っています。そして、今、初めて、人間の神に対する態度を言葉にします。神の御業が永遠に変わることなく、付け加えることも、除くことも許されないのは、人が、神を畏れ敬うようになるためである、と言っています。

16節でコヘレトは語ります、「太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを」と言っています。これこそが、人間の歩みを安全にすることなく、神が気ままに定める“謎と苦難”であると話し始めるのです。そして、「すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」と付け加えたのです。ここでは、人間にとって計算されるような、また、正義についてのきちんとした規範に従って決定されるような審判が語られているのではなく、あらゆる人間的な証明から遠く離れた、神様の力で、全く神秘的に決定される定めが語られているのです。神は全ての人を裁かれます。「正しい人も裁かれる」と言われているとおりです。この神の裁きがあることを知っているなら、人は神を畏れ、謙遜に生きるべきだと言うのです。それが「すべてのことに、定められた時がある」という言葉の意味なのです。

コヘレトは、「人は一体何を為すべきか」、という問いの中で、これまで繰り返した警告に、再び戻ってきます。「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだ」と悟ったと言うのです。「日々、労苦して与えられるものを、楽しみなさい」と警告しています。そして、「それが、人間にふさわしい分である」と、結んでいます。

コヘレトの時代からははるかに時代が降りまして、初代教会の時代です。使徒言行録の著者ルカは、初代教会の生活について描いています。彼ら、教会に属する者たちの生活が、四つの行為として挙げられています。3:42です。一つには、使徒たちの教えを固く守る生活、二つには、教会員が交わりをしている生活、三つ目には、パンを裂く生活、四つ目が祈りをしていた生活です。現代の言葉で申しますと、一つ目の、「使徒たちの教えを固く守る生活」とは、新約聖書の教えを固く守る生活であると言うことができます。46節以下では当時の教会生活を描いています。まず礼拝については、「毎日、ひたすら、心をひとつにして神殿に参り」と記されています。イエス様が生きておられた時代と同じように、ユダヤ教の神殿礼拝やら、個別の礼拝堂の生活にも参加していたのです。次に、愛餐についてのことが、記されています。「家ごとに集まって、パンを裂き、喜びと真心をもって、一緒に食事をし、神を賛美していた」と記されています。そして、この、共同の会合の特徴が挙げられています。「喜びと真心をもって」であり、「神を賛美していた」と言うのです。

この、初代教会のキリスト者の、「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」という集会生活を想像しますときに、私たちは、あの、コヘレトが語ったコヘレトの言葉の3:12節以下を思い起こします。コヘレトは言っています、「わたしは知った。人間にとって、最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ。人だれもが、飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ」と言う言葉です。人だれもが、食い飲みし、その労苦によって満足するのは神の賜物です。それだけに、私たちは喜びと真心をもって生活し、神を賛美して日を送りたいのです。

アーカイブ