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わたしの言葉

わたしの言葉
大坪章美

マルコによる福音書13章28-31節

エレミヤ書の1章2節には、「主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモツの子、ヨシヤの時代、その治世の第13年のこと」と記されています。ヨシヤ王が即位したのが紀元前640年のことですから、エレミヤが召命を受けたのは、それから13年後の紀元前627年のことでした。主なる神様の、「エレミヤよ、何が見えるか」という問いかけに対して、エレミヤは、「アーモンドの枝が見えます」と答えました。その時の神様とエレミヤの応答を、言葉に忠実に申し上げますと、エレミヤは、「シャーケードの枝が見えます」と答えたのでした。シャーケードというアーモンドの木のヘブル語名の語源は、ショーケードという動詞で、「見張る」という意味を持っています。このエレミヤの答えに対して、神様は「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」と言われました。神様とエレミヤの思いが、ショーケードつまり、“見張る”という言葉を通して一致したのです。13節で、主なる神様が再びエレミヤに、「何が見えるか」と問われたところ、エレミヤは、「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています」と答えたのでした。これに対し主なる神様は、「北から災いが襲いかかる。この地に住む者すべてに」と語られたのです。そして、その後の歴史を見れば、主なる神がエレミヤに対して語られたことが成就していることに私たちは畏れを感じます。ユダ王国を北から攻撃したのは、新しく興った国、新バビロニアでした。

エレミヤが主の召命を受けて預言した時から六百年あまりの時がながれて、紀元30年頃のイエス様のお言葉を、マルコが記しています。この時の情景は、マルコによる福音書の13:3節に記されているとおりです。イエス様が、オリーブ山で、エルサレム神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの4人が近づいて来て、密かに、イエス様に尋ねたというのです。彼らは、神殿崩壊の時期が、一体いつなのか、ということと、これらのことが全て完成する時の“徴”が、何であるのか、ということを尋ねたのでした。イエス様は彼らに答えられました。「これらのことが、起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」。イエス様は、改めて仰います、「これらのことが皆、起こるまでは、この時代は決して滅びない」と言われました。「この時代」と翻訳された元の言葉の意味は、「血族、種族、世代」などです。従って、“主が再び来たり給う時の前兆は、今、生きている人々、この世代の人々が死に絶えないうちに、起きる”と言われているのです。そして、イエス様が言われる「これらのこと」が、あの、十字架と復活の出来事であったとすれば、もう、再臨の前兆は、起きてしまったのです。イエス様は、31節で、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と預言されました。直訳しますと、「天地は過ぎ去って、新しくされるが、わたしの言葉は決して過ぎ去らない」という意味になります。主なる神様は、自らが創造された天地万物も、自由に過ぎ去らせられます。然し、神様は、その言葉を過ぎ去らせることはなさいません。神様は、究極においても、語られる神、御言葉の神なのです。ですから、私たちの信仰は、ただ、御言葉にのみ依り頼みます。私たちは、いずれ過ぎ去るこの世界に真理を求めません。この世界が過ぎ去っても、決して滅びない御言葉に、希望を置くのです。イエス様は、4人の弟子達に話されました。「わたしの言葉は、決して滅びない」と預言されたのです。ここで、私達は、エレミヤが見ていた「アーモンドの枝」を思い出します。預言者エレミヤが神様からの召命を受けた直後、神様から語りかけられた言葉が、「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」というお言葉でした。神様の言葉が成し遂げられるように、歴史は動き、それが神様の御心なのです。イエス様が語られた、「天地が新しくされても、わたしの言葉は、決して滅びない」というお言葉も、神様は成し遂げられるように見張っておられます。私達は、今週も主が成し遂げられる御言葉に従って歩むことが、出来るのです。

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