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秘められた真理

秘められた真理
大坪章美

テモテへの手紙一 3章14-16節

申命記は、紀元前1240年頃、エジプトを脱出してもう既に40年程も荒れ野をさまよったイスラエルの民が、ようやくヨルダン川の東の地にまで辿り着いた時、モーセがイスラエルの民に語りかけた言葉を記したものです。モーセは、この歴史的なカナンへの進攻のリーダーであるヨシュアに対して、「あなたたちの神、主が二人の王に対してなさったことを、すべて、あなたは自分の目でみた」と告げています。“二人の王”とは、ヨルダン川の東でイスラエルの戦士が打ち破ったヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグのことです。そしてヨシュアに告げました、「あなたがこれから渡って行く全ての王国にも同じ様にされるであろう。」

このように、主なる神様が、イスラエルの民を約束の地に導き入れるために、ご自分が共に戦うと約束される中で、モーセは、心を突き動かされて、主に祈り求めたのです、24節です「あなたは僕であるわたしに、あなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。」と祈りました。モーセが、ここで祈ったのは、モーセ自身の願望の現われなのです。「神の約束の地、カナンに入ってから、神様はどれ程大きなみ業を、イスラエルの民のために為してくださるであろうか」という、期待に心を躍らせていたのです。モーセが次に口にした祈りの言葉が、その心を表しています。「あなたのように力ある業を為し得る神が、この天と地のどこにありましょうか。どうかわたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください」と祈っています。

然し、これは許されないことでした。主なる神様は、イスラエルの民が、主の命令に背いてアモリ人の地に攻め上ろうとせず、不平不満を言い、そしてシナイ山の麓で金の子牛像を鋳造し、ひれ伏して拝んだ民の罪の連帯責任を問われ、モーセはついにヨルダン川を渡る事はできなかったのです。このモーセが、主なる神ヤハウェに対する祈りの中で告白した言葉、「あなたのように力ある業を為し得る神が、この天と地のどこにありましょうか」と言う言葉は、まさに、モーセが心の底から叫んだ、神を讃える言葉でした。

この、モーセが賛美したと同じように、キリストを賛美している個所が、新約聖書にあります。紀元百年頃、パウロの名前で愛弟子テモテ宛に書かれたテモテへの手紙?の3:16節です。そこには、「キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」と記されています。このキリスト賛歌は、神の御業を表すものです。「キリストは肉において現れ」とは、地上での出来事であることを表しています。このことは、何気なく賛美されていますが、これこそがパウロが言っております「信心の秘められた真理」、元の言葉で申しますと、ミステーリオン、つまり、「キリストにおいて啓示されたこと」なのです。パウロは、キリスト賛歌を高らかに歌いました。主なる神を讃えるという点では、その時から千三百年も前にモーセが祈った言葉、「あなたのように力ある業をなし得る神がこの天と地のどこにありましょうか」という賛美と全く共通しています。ただ、モーセは、その次に、祈りの言葉を続けたのです、「どうかわたしも、渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地を見せてください」と、血を吐くような思いで、主なる神に懇願したのでした。モーセは、この後、神様がなさるであろう神の御業を見させて頂いてから、眠りに就きたかったのです。それだけに、必死の思いで、神様に懇願したのです。然し、神様の御旨は、別の所にありました。モーセは、ピスガの山頂から、遠くカナンの地を望むしか無かったのです。この、モーセが生きているうちに見る事が出来なかった神の御業を、自分の目で見て、パウロはこのキリスト賛歌を歌っているのです。「神が肉において啓示された」、つまり、「永遠の神の御子が人となられた」、これほど大きな奥義は無いのです。私達も、モーセが願っても果たせなかった神の御業を知ることが出来、その救いに与ることが許されている幸いを、神に感謝したいのです。

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