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神の国を仰ぎ見る人は

神の国を仰ぎ見る人は
玉川教会 竹澤知代志

詩編 84篇11-13節、ヨハネによる福音書 3章1-15節

『風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。』

風と翻訳されている言葉は、普通、霊と訳される。息・みたまという訳もある。霊、息、みたま、そして風、全部、人間の目には見えないものだ。

霊、息、みたま、そして風、目には見えないが、そこに存在することを、誰もが知っている。目には見えない霊が風が、私たちの目に見えるものを動かすからだ。

創世記の1章7節。『主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。』

神様は人間の体に命の息を吹き入れられた。この、命の息は、今日の箇所の風、そして霊と同じことだ。

姿形を形作っている肉体が一番大事なものではない。その中に存在し、肉体を動かす力である命が、霊が、つまり、神様から吹き入れられた息が、真に大事なものだ。愛が、そうだ。

人間を突き動かす力は、おうおう目には見えないものだ。ところが、私たちはどうしても目に見えるもの、姿形に捕らわれて、肝心な中身が見えなくなってしまうのだ。

ニコデモは、パリサイ派に属する全国でたった71人の議員の一人、政治家で、ユダヤ教の指導者だった。

2節の「ある夜」というのは、ユダヤ人の目をはばかってということだ。つまり、彼は今、自分の魂が救われるかどうかという重大な問題に直面していて、本人も真剣なのだ。冗談や酔狂で、やってきたのではない。しかし、それよりも世間の体裁の方が大事だ。ニコデモは、殻から出たいのか、閉じ籠もっていたいのか、何だか良く分かりない。本人も分からないのだろう。

私たちも同じだ。教会にやって来る程の人は、何かしらの思いがあって、今のままではいけないと考えている。自分を変えたいと願っている。しかし、では、身にまとっているものを脱ぎ捨てることができるかというと、躊躇するのだ。

病気になってお医者さんに行ったら、胸をはだけて聴診器を当てて貰う。場合によっては、下着一つになって、診察を受ける。お医者さんに聞かれたら、恥ずかしいなんて言わないで、自分の具合の悪い所を見せ、その話をしなくてはならない。でも、神様の前ではそんなことをしたくないのだ。神様の前だからこそ、格好を付けていたいのだ。神様からも、他人からも、立派な人だと見て貰いたいのだ。

このようなニコデモに対して、イエス様はおっしゃいた。

『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』 一般論ではない。ニコデモに対して言われたのだ。迷い、悩んでいるニコデモに対して言われたのだ。

人間をイエス様へと導く力は、個々人の常識でも教養でも、そして決断力でもない。一人ひとりに働く、水と聖霊の力だ。つまり、イエス様の十字架であり、これに対応する洗礼によって現実になるのだ。

『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。』

洗礼を受けるとは、このような意味なのだ。一度は死に、もう一度生まれ変わって、新しい生命を与えられ、神の国の住民として登録されるということなのだ。大胆に縮めて言えば、イエス様は、ニコデモに洗礼を薦めておられるのだ。ニコデモが容易に決断できない人であることを承知の上で、ニコデモに洗礼を薦めておられるのだ。

『水と霊とによ』らないで、『神の国に入ることは』、神の国への密入国だ。否、密入国するほどの熱心があったら、イエス様は、入国を許してくださるだろう。やはり、『神の国に入ることはできない』のだ。

洗礼を受けなければ、『神の国に入ることはできない。』のだ。神の国の食事=聖餐に与ることは出来ない。それをしたならば、その食事が、神の国の食事=聖餐であることを否定する行為なのだ。

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