新しい人の生き方
大坪章美
エフェソの信徒への手紙二 4章25-28節
ハバククの預言がなされたのは、強大を誇ったアッシリア帝国が、終焉を迎え、新しく東から興った新バビロニア帝国に覇権を奪われる、というまさに、その只中でありました。およそ百年間にもわたる過酷な圧政に苦しめられたユダの人々のアッシリアに対する反感は耐え難いものがありました。このような悲惨な状況から解放されたいという願いが、ユダ王国中に満ち満ちていました。それが、1:2節に記されています、「主よ、わたしが助けを求めて叫んだのに、いつまであなたは聞いて下さらないのか」という、預言者ハバククの嘆きの言葉です。この問いに、主なる神は答えられました。1:6節です、「見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。」と預言されたのです。ハバククにとって、主なる神は善であり、義なる方でした。そしてその神が、世界の歴史の導き手である筈なのです。であるからこそ、彼は、目の前の現実、つまり、「神に逆らう者が、弱者を苦しめている現実」を目の当たりにして、何が何だか、理解できなくなった、という嘆きの声なのです。主なる神様は、ハバククの二度目の嘆きにも答えられました。2:2節には、「主はわたしに答えて言われた」と記されています。自分のものでないものを増し加える者は災いだ、と言うのです。「自分のものではない物を、増し加える」というのは、債権者が債務者から担保を取り上げることもあるでしょうが、諸民族を略奪した世界帝国が、逆に威嚇されているのです。まさに、勝者が敗者に、立場が逆転するのです。「いつまで続けるのか、重い負債を、自分の上に積む者よ」と、略奪者アッシリアを威嚇しています。奪い取った者に対する裁きは、奪い取られることによって与えられるのです。
預言者ハバククが活躍した時代からは、七百年程も時を隔てた、紀元80年代に、パウロの名前で、エフェソの信徒への手紙が書かれています。パウロは、エフェソの信徒達へ、新しい生き方を勧めています。21節で、「あなた方は、キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです」と教えています。パウロは、 “新しい人”の生き方を、これから述べようとしています。「だから偽りを捨て、それぞれ隣人に対して、真実を語りなさい」と、勧告しています。言い換えますと、「神に救われて、新しい人にされたのだから、偽りを捨てて、隣人に真実を語りなさい」と言っていることになります。パウロは28節で、「盗みを働いていた者は、今から盗んではいけません」と、勧告しています。そして、ここで語られている、“盗みをしている者”というのは、広い意味が込められています。単に、人の物を取る事だけではありません。真面目に働かないで、不正な手段で儲けたり、奴隷を使ってお金を稼ぐ人達も含まれているのです。ここで、パウロが勧告していますことは、今日、最初に読まれたハバククの預言、3:5節、「確かに富は、人を欺く。高ぶる者は、目指すところに達しない」という、神の言葉と、良く似ていることに気付きます。ハバククの預言の矛先は、アッシリア帝国と、その協力者達に向けられていました。そして、その結末は、主なる神様が用いて起こされた、新バビロニアの王ナボポラッサルや、その子ネブカドネツァルの手によって、アッシリア帝国とその協力者たちは、完膚なきまでに打ち滅ぼされてしまったのです。パウロが勧告している、「盗みをしている者は、もう盗んではいけません」という言葉は、エフェソの信徒達に、「救われたあなた方が、盗みを続けると、ハバククの預言のようになる」と、警告を発しているのです。そして、パウロの勧告は、単に、「もう、盗みをしてはいけません」ということに留まりません。続いて、「むしろ、労苦して、自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」と勧めています。パウロの勧告は、或いは貧しい人々への分配という、教会の業を先に考えた上で、主に救われ、“新しい人”とされた人達は、不正な手段でお金を得ることなく、自分の手で正当に働いて、貧しい人々に分けて欲しいとの願いが込められていたのかも知れません。