過去の説教

感謝をいけにえとする

感謝をいけにえとする
大坪章美

コリントの信徒への手紙一 15章50-57節

詩編50篇は、エルサレム神殿で行われたイスラエルの民と、主なる神ヤハウェとの契約を更新する祭儀の中で歌われたものです。そして、7節では、「イスラエルよ、わたしはお前を告発する」と仰います。主なる神が、裁き、叱責されようとするのは、いけにえの数や、回数などではありません。“主なる神に対する、民の心”が問題だと言っておられるのです。主なる神様は言われます、「告白を、神へのいけにえとして捧げよ」と。神様は、雄牛の肉を食べたり、雄山羊の血を飲んだりはなさいません。神の足元にひれ伏し、神を崇め讃え、神を告白することが、神様の御心なのです。そうすれば、と主なる神は言われるのです、15節です、「そうすれば、苦難の日、わたしはお前を救おう」と約束されるのです。人は、主なる神様に対して、真剣に向き合わなければならないのに、イスラエルの民にはそれが欠けていたのです。そして最後に、主なる神様は、これまでの教えに立って、裁きの座に着かれます。23節です、「告白をいけにえとして捧げる人」とは、いたずらに、動物の捧げ物で、主なる神様に恩を売ろうとする輩ではありません。ここで、“告白”と訳されている言葉は、もともと、“感謝”或いは“賛美”の意味を持っています。主なる神様は、ご自分に、祈りと従順によって、真剣に向き合う者だけを、救いの約束の対象となさる、と仰っているのです。

時は移りまして、紀元55年の春の頃、パウロはエフェソに滞在しておりました。ここで、自らが6年ほど前、第二次伝道旅行の途上でコリントに滞在した時に、その基礎を造ったコリントの教会の信徒たちに、手紙を書いていました。パウロは、15章50節で、「肉と血は、神の国を受け継ぐことは出来ず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことは出来ません」と言っています。但し、パウロは、コリントの信徒たちとは異なって、体の復活はあると主張します。そして、その復活の体は、コリントの信徒たちが考えたように、復活の時に、地上で生きた体がそのまま再生されるという考えではありません。死者が復活する時、復活の体はどんな体かと言いますと、44節でパウロが言っていますように、“霊の体”に成るのです。

そして、パウロは、主イエス・キリストが地上に来られる時、いわゆる再臨の時を、この地上で、生きて迎える人々の運命について語り始めるのです。パウロは、ここで、神秘を語り始めます。51節に、「わたしはあなたがたに、神秘を告げます」と記しています。そして、続いて、「わたしたちは、皆、眠りに着く訳ではありません。」すなわち、皆が死ぬわけではない、というのです。どうなるのかと申しますと、「わたしたちは、今とは異なる状態に変えられます」と言っています。死んで、それから復活するのではなく、生きていて、“変容”を体験するのです。この変容によって、霊の体という新しい命の形に変えられるのです。パウロは更に、死と罪との関係について明らかにして行きます。56節には、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と記しています。この死のとげである罪は、イエス様が十字架の上で死なれる折に、すべてを、ご自分で背負われて、人間の罪を贖われたのでした。このようにして、主イエス・キリストは、人間の死を、滅ぼしてくださったのです。「罪と死と律法」、これは、人類の祖先アダムの堕罪以来、古い人間を支配し、苦しめて来た闇の力でした。主なる神様は、イエス・キリストによって、これらの闇の全ての力から、私たちを解放して下さったのです。この喜びに満ちた祝いの言葉が57節で記されています。「私達の主イエス・キリストによって、私達に勝利を賜る神に感謝しよう」と、パウロは主なる神に感謝の祈りを捧げているのです。

思えば、私達は、詩編50篇の作者が、「感謝をいけにえとして捧げる人」こそ、主なる神の御心に沿う者であり、救いに与る者である、と歌っていることを学びました。私たちは、このパウロの言葉、「主イエス・キリストによって、私たちに勝利を賜る神に感謝しよう」という言葉の中に、詩編作者が歌った、「感謝をいけにえとして捧げる人」を見ることが出来るのです。

アーカイブ