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永遠不変の約束

永遠不変の約束
大坪章美

コリントの信徒への手紙一 1章4-9節

詩編102篇は、バビロン捕囚の時期、或いは捕囚直後に成立したものと言われています。18節で詩人は、「主は全てを喪失した者の祈りを顧み、その祈りを侮られませんでした」と、歌っています。「全てを喪失した者」とは、捕囚の民を指しています。彼らの苦しい捕囚の生活の中でも、主の御恵みを賛美する出来事は数多くありました。しかし、それらの記憶は、時と共に消え失せてゆくばかりだったのです。詩人の願いは、捕囚の間に起きた神の御業が書き留められて、捕囚後の民がそれを読み返し、主なる神の驚くべき御業を賛美せざるを得なくなることなのです。28節で、詩人は、主なる神様の永遠不変性を讃えています。この、果てしもない宇宙、生きとし生けるもの全てを包み込んだ被造物の世界、このたとえようも無く大きな存在をさえも、主なる神様は、薄ものの衣のように取り替えられると、歌っています。確かに、被造物は、主なる神によって、取り替えられることはあるでしょう。「然し」と、詩人は歌い続けるのです、「しかし、あなたが変わることはありません。あなたの歳月は、終わることがありません」と歌っています。たとえ、この被造物世界が、どのように変えられようとも、主なる神様だけは、変わらないのです。主なる神様の時間は、終わることが無いのです。

この、旧約の詩人が、永遠性を讃えた主なる神様に、使徒パウロもまた、感謝の言葉を記しています。コリント?の1章4節です、「わたしは、あなたがたが、キリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつも、わたしの神に感謝しています」と、記しています。このパウロの言葉は、コリントの信徒たちにとって、疑いも無く気持ちよく受け入れられるものでした。何故ならば、まさに、このことを、コリントの人々は、誇りとしていたからなのです。彼らは、特権的な知識を持って、異言を語る能力があり、霊に満たされて雄弁に語る能力を与えられていることを、自分たちの経験の中で誇っていたのです。然しパウロは、コリントの信徒たちの霊的な誇りに対して、厳しく批判します。もし、コリントの信徒たちが、雄弁や、特権的な知識によって豊かになったと誇るのであれば、それは、主なる神様によって豊かにされたからに他ならない、と指摘して、彼らの誇りは、退けられているのです。パウロの、「あなたがたは、賜物に何一つかけるところが無く、わたしたちの主、イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」という言葉は、コリントの信徒たちが、現在、どれほど豊かに恵まれていたとしても、コリントの集会が最終的に望んでいるものは、イエス・キリストが、悪と死の力に勝利して、最後に再び来られることなのだ、と言っているのです。主の再臨の日は、とりもなおさず、裁きの日です。私達人間は、この裁きの日に、責められるところが無い者になれる自信はありません。何故なら、私達人間が罪人であることには変わりが無いからです。それを、主なる神様がしっかりと支えて下さり、私達罪人を、「非のうちどころのない者」、つまり、「罪のない、責められるところの無い者にして下さる」と言っているのです。そして、最後に、これまでの議論を締め括るかのように、パウロは、「神は真実な方です」と言っています。ここで、パウロが言う、“真実”と言う言葉の意味は、“変わらない”ということです。コリントの信徒達に対して、「主なる神は、神の真実によって、永遠に変わることなく私達をお召しになって、キリストとの交わりに入れようとされる」ことを、述べているのです。そして、ここで気が付くことは、パウロが言う、「神は、真実な方です」という言葉は、旧約の詩人詩編102篇の作者が歌った、“主なる神様の永遠不変性”を讃える歌、「しかし、あなたが変わることはありません。あなたの歳月は終わることはありません」という一節の、再現かと思うほど似通っています。私達は、紀元前6世紀の詩人が祈った永遠不変の主なる神が、パウロによって、「神は真実な方です」と讃えられ、その永遠不変性の中で、私達を召して下さり、イエス・キリストとの交わりに入れて下さる恵みに、感謝したいのです。

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