過去の説教

罪と死からの脱出

罪と死からの脱出
大坪章美

テトスへの手紙3章 1−8節

イザヤ書の40章から55章までが書かれたのは、紀元前6世紀の後半、いわゆるバビロン捕囚の終りの頃です。49:7節は、バビロンに捕らわれているイスラエルの民が、ほどなく解放されるということを告げています。捕囚の民はバビロンから解放され、家畜を飼いながらエルサレムへの道を歩み、荒地はすべて、牧草地になると預言しているのです。11節には、神の言葉が、「わたしはすべての山に、道を開き、広い道を高く通す」と預言されています。そしてこの道を通って、バビロンだけからではなく、諸国に移住させられていたイスラエルの人々が帰ってくると言うのです。こうして主なる神ヤハウェが、バビロン捕囚からの解放を告げてから、バビロンからエルサレムへ帰還する人々の群が続きました。諸国の王達や、貴族達は、このエルサレムへの切れ目のない人の流れを、驚きと畏怖の念を持って眺め、主の御前にひれ伏したに違いないのです。このような結果を生じたのは、このイスラエルの民の生命力でもなく、強靭さでもありません。ただ、悲惨な破局を貫いて、イスラエルの民を守ろうとされる、主なる神の真実だけがあったのです。

イザヤ書49章は、主なる神様が、一方的な救済の意志を表されて、イスラエルの民をバビロンから解放され、同時に諸国の間のイスラエルの民を解放して下さり、すっかり荒廃していた都エルサレムの復興が進む原点ともなりました。そして、今の私達、現代に生きる私達も、同様に、神様の一方的な憐れみによって、救いを与えられています。パウロは、自らが救われる前のことを思い起こして話し始めます。3節では、「わたしたち自身も、かつては無分別で、不従順で、道に迷い、憎み合っていた」と告白しています。そして、自分が変えられたのは、4節に述べていますように、「わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき」であると、言っています。パウロは、使徒言行録9:3節に記されています、「突然、天からの光が彼の周りを照らして、『サウル、サウル、何故わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた」と言うのです。まさに、主なる神は、パウロがテトスに書き送ったように、「神は、私達が行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、私達を救って下さった」のです。そして、この“神の慈しみ”と“人間に対する愛”の救いに与ったのは、 “パウロの回心”だけではありません。私達キリスト者は、みんな、少なくとも私自身は、そう思えるのです。今になって分かるのです。イエス様に導かれて、洗礼を授かり、以前の生活と全く異なる環境に変えられたのです。どうして、これほど変わってしまったのか、それが、テトスへの手紙3:4節なのです。そこには、「しかし、私達の救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき」と記されています。このパウロの冒頭の言葉、“しかし”、ギリシャ語で言えばたったの二文字、de(デ)という接続詞、これに依って、全てが逆転されるようになったのです。イエス・キリストが現れ、私達の間に住まわれた時に、全てがキリストの故に逆転したのです。恵みを受け、義とされたのは、私達の出来具合によるのではなく、キリストの信仰によるものだったのです。このような神の奇跡は、キリスト・イエスの誕生と、十字架の死をもって始まりました。私達は、先にイザヤ書49章を学ぶことにより、主なる神ヤハウェの赦しによって、イスラエルの民がバビロンでの捕囚から、或いは他の諸国の居留地から、続々と祖国ユダへ、都エルサレムへと帰還する、人々や家畜の流れを思い浮かべました。そしてそれはまさに、イスラエルの民の、新しい出エジプトであることに思い至るのです。それは、イスラエルの民を諸国の虜から解放する、神の約束の実現でした。次に私達は、パウロからテトスへ宛てた手紙の中で、主なる神の憐れみによって私達が救われ、洗礼によって罪から贖われ、永遠の命を受け継ぐ者とされたことを学びました。この神の御業、私達が授けられる“洗礼”こそ、私達、新しいイスラエルの民を罪と死から解放し救い出して下さる新しい出エジプトであったことに気付くのです。

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