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わたしの言葉を行う人

わたしの言葉を行う人
大坪章美

ルカによる福音書 6章46-49節

“箴言”と翻訳された書名は、1:1節の表題から採られたものです。そこには、「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」と記されています。箴言18:10節で、ソロモンは言っています、「主の御名は力の塔。神に従う人は、そこに走りより、高く上げられる」。“主の御名”の原文は、“ヤハウェ シェム”つまり、“ヤハウェの名前”となっています。ヤハウェという神の名前が初めて人間に知らされたのは、出エジプト記3:14節に記されていますとおり、モーセに対してでした。神様が、モーセに啓示された“わたしはある”つまり“ヤハウェ”という名は、存在の源であって、創造者の働きを示しているとも言えるのです。しかし、私たちにとって、更にその深い意味に驚かされますのは、“わたしはある”、つまり、“ヤハウェ”という言葉が、同じく出エジプト記3:12節の、「神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる』」という主なる神の言葉の中で、“あなたと共に居る”、この“居る”という言葉が、神の名“ヤハウェ”なのです。神様のお名前そのものが、「わたしたちと共に居てくださる」とは、何と嬉しいことでしょうか。

このように、歴史上の出来事にも現れて、救いの御業を成し遂げられた“主の御名”を、ソロモン王は、「“力の塔”である」と語っています。新共同訳では、“力の塔”と訳されていますが、以前の口語訳でも、新改訳でも、“堅固なやぐら”と訳されています。「主の御名は、堅固なやぐらである」というのです。ソロモン王は、続けて語るのです、「神に従う人は、そこに、堅固なやぐらに走り寄り、高く上げられる」と言っています。ソロモン王は、この世を生き抜く上では、悪の力に対抗しなければならないことを良く知っていました。しかし、自分の状況に捉われてしまい、自分自身の力や能力にのみ、寄り頼む時に、私たちは、度々、絶望的な状況に直面してしまいます。ソロモン王の知恵は、そこに働きます。どのような状況に置かれようとも、どのような敵から攻められようとも、あるいは、どん底に思える状況に陥っても、その御名が堅固なやぐらである主なる神ヤハウェや、救い主イエス・キリストに走り寄る者は、高く上げられる、即ち安全である、と言うのであります。

ソロモン王の時代から一千年もの時が流れて、紀元1世紀になります。イエス様は、ソロモン王が箴言で語った、「神に従う人は、堅固なやぐらに走り寄り、高く上げられる」という言葉に、非常に良く似た言葉を語られました、ルカによる福音書6:47節です、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う者がどんな人に似ているかを示そう」と仰ったのです。48節です、「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて、家を建てた人に似ている」と言われました。そして続いて、その家は、洪水になって、川の水が押し寄せて来たが、揺り動かされることはなかった、と仰ったのです。そして、このような家を建てた人は、どんな人かと言いますと、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人」が皆、該当するのです。

同じように、イエス様を「主よ、主よ」と呼んでいた弟子たちの中でも、如何なる試練にも、その人の人生を狂わせられることなく、勝利の道を歩み続ける者と、試練や困難、或いは主の裁きの日に耐え忍ぶことが出来ずに、自分の人生そのものが足元から崩れてゆく者とが居たことが分かります。その違いは、何処にあったかと申しますと、如何なる試練にも屈しない信仰者は、47節に言われているとおり、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆」そうである、と仰っています。

そして、私たちがここで気付くことは、このイエス様のお言葉は、まさに、ソロモン王が箴言で語った、「神に従う人は、堅固な砦に走りより、高く上げられる」という言葉が、現実のものになった、イエス様において実現しているということなのです。

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