過去の説教

わたしの避けどころ、砦

わたしの避けどころ、砦
大坪章美

テモテへの手紙二 1章6-14節

詩編91篇は、作られた年代ははっきりいたしませんが、主なる神ヤハウェに頼めば必ず応えられるという教訓を与えられる詩であります。この詩人は、1節2節で、ある人に向かって、神に依り頼むことを勧めています。ある人とは、エルサレム神殿に滞在している人のことです。そして、次のように勧めているのです。「主に申し上げてご覧なさい。『あなたはわたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方』と、」と勧めています。この詩人は、神に依り頼むように勧める理由を語ります。「何故なら、神はあなたを、仕掛けられた罠から、陥れる言葉から救い出して下さるからである」とその根拠を示します。そして、詩人は信仰深いある人に向かって、ある情景を語り出します。7節です、「あなたの傍らに、一千の人、あなたの右に一万の人が倒れる時すら、あなたを襲うことはない」と言っています。人間的に見て、全くありそうにもない、不可能に近いことが、信仰の領域には存在するのです。正に、神の奇跡とも言えるものです。なぜ、私だけが助かるのか?という、答えられない問いを持った者だけに分かることなのです。そして、詩人は、何故こういうことが起きるのか、という根拠を示します。9節です、「何故なら、あなたは、主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとしたから」と断言しています。

使徒パウロは、紀元63年頃、ローマの牢獄の中から、エフェソに居た愛弟子、テモテに対して手紙を書いています。パウロも、この詩編91篇を歌った詩人のように、「あなたには災難も降りかかることが無く、住まいには疫病も近づかない」と、テモテを力づけたかったことと思います。と、申しますのは、パウロは7節で、テモテに対して、「神は、臆病の霊ではなく、力と愛と、思慮分別の霊をわたしたちに下さったのです」と、勇気を出すように促しているからなのです。パウロは、テモテが、年が若く、経験も不足していたので、怖じ気やすいところがあることを知っていて、そうであってはならない、と言っています。「主を証することを、恥じてはなりません」という訴えは、パウロ自身も恥じないのだから、テモテたちも恥じてはならないと言っているのです。その当時、十字架と復活の福音は、ローマ人やギリシャ人にとっては、愚かな迷信と受け留められていたのです。続いてパウロは、「わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません」とも訴えています。既に、主の囚人となったパウロは、この世の権力にも跪くことはないのです。パウロは、決して、権力者や権力の組織を悪いとは言っておりません。イエス様ご自身も、ローマの官憲やユダヤの祭司長、律法学者に敵対することはなさらず、甘んじて迫害をうけられました。パウロは、このイエス様の十字架の後に従っているのです。そしてパウロは、自分たちが救われ、聖なる招きに与っているのは、主なる神のご計画と、恵みによるものであるということを、強調します。この福音を宣べ伝える者として、自分が任命されているのだと、言うのです。パウロは今、ローマ皇帝ネロによる処刑の日を目の前にして、この手紙を書いています。そして、1:4節には、「ぜひ、あなたに会って、喜びで満たされたいと願っています」と記しています。アジア州のエフェソからローマに来ることは容易なことではなく、また、教会も、迫害のために、危機的状況にありました。しかし、自分の死を目の前にしても、パウロはなお、福音伝道の未来を思い描いているのです。このような、教会の危機的状況であるからこそ、パウロは、テモテや、マルコを呼び寄せて、教会の次の世代を担う若い指導者たちに、パウロと共に苦しみを忍ぶという体験をして欲しかったのです。パウロは、若いテモテに、詩編91篇の詩人が歌ったような、信仰による強さを期待していたことでありましょう。詩編91篇の2節にありましたように、「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方』」と、祈り、歌いたかったに違いないのです。そして、私たちも、この地上の歩みを、「わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方」と、主に申し上げつつ歩みたいと願うのです。

アーカイブ