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わたしの父の家

わたしの父の家
大坪章美

ルカによる福音書 2章41-50節

詩編26篇は、無実な人の訴えの祈りを表しています。この詩人には、無実を主張する理由があるからなのです。1節の後半に、その理由が記されています、「わたしは、完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません」と胸を張っているのです。そして、更に具体的に、自分の身の潔白を告白しています。「偽る者と共に座らず、欺く者の仲間に入らない」と、自分を訴える者に反論しています。恐らく、この詩人を訴える者たちは、この詩人が、神を信じない人々と係わりをもち、禁じられた秘密の集会に参加していると、非難していたのでしょう。詩人は、これらの訴えを、何とか否定しようとしています。4節5節で誓った、「神無き人々との係わりを持つことや、禁じられた秘密の集会などを憎み、参加することはしない」という言葉とは対照的に、8節では、「主よ、あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います」と告白しています。ヤハウェおよびその祭儀に対する詩人の忠誠を表し、また同時に、エルサレム神殿、主なる神の居ます家に対する彼の愛を告白しているのです。神の家とは、神様の栄光が、聖なる契約の箱の上に降り立つ場所である、という古くからの伝承が、背景にあるのです。

この無実の詩人が、数百年も前に、身の潔白を表し、祭儀に加わり、愛し、慕ったエルサレム神殿に、幼いころのイエス様が、両親のヨセフ、マリアと共に詣でたとの話が、ルカによる福音書2:41節以下に記されています。イエス様の両親は、過ぎ越しの祭には、毎年、ガリラヤのナザレからエルサレムまで旅をしたと記されております。イエス様が12歳になったときも、将来、イエス様にとって、突然の重荷に感じられることがないように、この巡礼に連れてきていたのでした。そうして、祭りの期間、一週間が終わって、来た時と同じように、ガリラヤから上って来た巡礼者の群に混じって、帰りの旅に出たのですが、少年のイエス様が、未だエルサレムに残っておられるのに気付かなかったのでした。両親が少年のイエス様を見つけ出した時、「イエス様が神殿の境内で、学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり、質問したりしておられた」と記されています。イエス様を見つけて、ほっとしたマリアは、イエス様に自分の思いを打ち明けました、「何故、こんなことをしてくれたのです。ご覧なさい、お父さんもわたしも、心配して探し回っていたのです」と言ったのです。しかし、イエス様のお答えは、意外なものでした、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが、自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか。」と、お答えになりました。少年イエス様のお答えの中に、既に神の子の意識、メシア意識があったことが、分かります。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」というお言葉の中の、“当たり前”と翻訳されている言葉の意味は、“必然である”、つまり“そうなる必要がある”という言葉です。旧約の詩編26篇の詩人は、エルサレム神殿を指して、「主よ、あなたの居ます家、あなたの栄光の宿るところを、わたしは愛します」と祈りました。詩人が歌う「あなたの居ます家、あなたの栄光の宿るところ」とは、天の輝きに包まれた、主なる神のご栄光が、聖なる契約の箱の上に降り立つ場所にほかなりませんでした。私たちはここで、ルカによる福音書の24:44節において、復活のイエス様が言われたお言葉、「わたしについて、モーセの律法と、預言の書と、詩編に書いてある事柄は、必ずすべて、実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒に居た頃、言っておいたことである」という預言の言葉を思い起こさずには居られないのです。何故なら、詩編26篇の詩人が歌った、「あなたの栄光の宿るところ」つまり、契約の箱の上への、主なる神様の顕現の祈りが、少年イエス様の「わたしが自分の父の家に居るのは、約束されたことなのだ」という言葉においてまさに、成就している、ということに思い至るのです。そして、イエス様の十字架と復活は、ご自身のご受難予告とも、旧約聖書全体とも、完全に一致する、ということが分かるのです。

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